×

連載・特集

広島の囲碁 原爆下の対局 会場変更 棋士の命救う

 第3期本因坊戦第1局は1945(昭和20)年7月24日から3日間、広島市中島本町(現中区中島町)にあった日本棋院広島支部長、藤井順一の別宅で打たれた。第2局が囲碁史に残る原爆下での対局である。それは8月4日から3日間、同所で行われることになっていたが、この時は既に中国地方総監府から横やりが入っていた。第一部長の青木重臣から「広島市内は危険だから打ってはならぬ。もし対局を続けるなら、警察権力で中止させる」との忠告を受けていたのだった。

 これに強く反発したのがこの本因坊戦の面倒を見ている藤井だった。その時の模様を立会人の瀬越憲作は著作「囲碁一路」(産業経済新聞)の中で「私がこれを引き受けた以上、私のところで打ってもらいたい。広島が焼けたら、それはその時でよいではないか」と藤井が言ったと記している。困ったのが瀬越と対局者の橋本宇太郎本因坊、挑戦者の岩本薫。第1局後、3人で相談した結果、「空襲があると考えが中断され、会心の碁が打てない」と藤井に断りを入れ、津脇勘市が経営する五日市町吉見園、中国石炭(現中石産業)の寮での対局が決まったのだった。

 3日目の8月6日、碁は既にヨセの段階に入っていた。午前8時15分、2日目までの手順を並べ終えて、対局者が向き合っていた。後年、出版された3人の手記をまとめると、突然、ピッカと閃光(せんこう)が広がり、それから間もなく家がひっくり返るような爆風を受けた。この時、瀬越はぼうぜんとして座り込んだまま。岩本は碁盤の前でうつぶせ、橋本は庭に飛び出していたという。ガラスは飛び散ったが、幸いけが人はなく「ともかくこの碁だけは済まそう」と片付けをした後、昼すぎから夕方まで打ち継いだ結果は白番、橋本の5目勝ちだった。

 そのころ3人は火膨れになって、広島方面からぞろぞろ帰ってくる人を見た。中学生だった瀬越の三男もその一人。勤労奉仕中被爆し、疎開先の五日市に帰る途中、倒れていたのを学友が家に運んだが、5日後に息を引き取ったという。広島市の自宅にいた藤井や銅金卯吉、伊予賢一ら広島支部関係者も死亡した。

 この原爆投下時の対局について、後に愛媛県知事になる青木は数年後、瀬越に語っている。「囲碁一路」によると、青木が広島で二つやったいいことのうちの一つが、本因坊戦の第2局を五日市に回避させて大棋士3人の命を救ったことだったという。

 その後、本因坊戦は年内に東京、千葉・野田の私邸で打ち継がれ3勝3敗。翌年の46年8月、高野山で決戦が行われることになった。戦いに先立っては廿日市の蓮教寺で藤井ら広島支部関係者の一周忌を開催。霊前で橋本、岩本が2手打った後、高野山で打ち継がれた。この勝負には岩本が勝って新本因坊になったのである。

 第3期本因坊戦に功労のあった津脇には3年後に三段、78年に五段の免状が贈られている。(永山貞義)

(2016年12月7日セレクト掲載)

年別アーカイブ