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連載・特集

『生きて』 都市・建築研究者 石丸紀興さん(1940年~) <3> 勉学の日々

大学生活と東京に憧れ

  1956年春、井原中を卒業。井原高への進学が決まっていた
 中学を卒業した春休み、母の姉家族がいる大阪へ旅行したんです。いとこの兄は京都大生、その弟は東京大生でした。大学生活について話してくれてね。こんな世界があるのかと、それはもう刺激されました。

 井原市の実家2階の8畳間と6畳間を勉強部屋にしていました。夏は窓を開け放ち、蚊帳の中に机や布団を入れて。冬は火鉢を置く。高校から夕方帰ると、母に「(午後)9時に起こして」と頼んでまずは寝るんです。それから晩ご飯、勉強。あの頃は「四当五落」といって、5時間寝たら大学に落っこちると信じていました。学習塾もあったかもしれないけど、学校の教科書が基本。自転車を飛ばして書店へ参考書を買いに行き、夢中になって勉強しました。

 うちは農家ですが、私が小学校高学年の頃だったか、両親が自宅の敷地にデニム工場を建てた。糸を染め、織機を10台くらい並べてガチャガチャやっていました。景気はよかったみたいだけど、家を継ぐのは勘弁してほしかった。本業は農業で、耕運機も除草剤も普及していない当時、全てが手作業。小さい頃から手伝っていましたから、大変さが身に染みていた。それに比べれば勉強は楽だと思い、学問で生きていこうと決心したわけです。

 しかも高校3年の時、模擬試験を受けたら、奇跡的に全国でも上位の成績になって。それを見た進路指導の先生が「おまえ、東大に入れるぞ」と言う。私も、ほいじゃあ、やっちゃろうと。その年の夏、東京大に通ういとこに誘われて上京し、大学のセミナーにも参加させてもらっていたから、東京への憧れが高まっていたのも確かです。

  東京大を受験し59年春、同大理科一類に入学する
 理科一類は工学、理学部系などです。何となくですが、原子力潜水艦を造るんだと、夢を描いていましてね。最先端だと思っていたんでしょう。やがて船舶工学に向いていないと諦めたのですが、そのきっかけは2年生の時の60年安保闘争。激しい闘いに右往左往し、自分の進路についても悩み抜きました。

(2016年12月8日朝刊掲載)

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