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連載・特集

『生きて』 都市・建築研究者 石丸紀興さん(1940年~) <4> 建築学への道

揺れる社会 進路を模索

  東京大の2年生だった1960年、日米安全保障条約改定を巡る反対運動が激化する
 ほとんどの学生が安保闘争に参加していました。私は特定の思想に傾倒していなかったけど、遅れ気味にデモには加わった。60年6月15日、東京大生の樺美智子さんが国会の南門で警官隊と衝突し、亡くなった。混沌(こんとん)とした社会情勢の中で、自分の将来をどう描くか、苦悩しました。

 2年生の秋には専攻の学科を決めないといけなかったが、エンジニアになろうという入学時の思いに迷いが生じた。結局、1年間進級を延ばして模索することにしました。

 家庭教師のアルバイトをし、赤坂離宮(現迎賓館)に置かれた国立国会図書館へよく行った。大学のサークル活動で東京西部の山村を訪ね、小学生と遊んだことも。いっそ文系に移って経済学を学ぼうかとも考えましたが、やはり工学分野で、人の暮らしに関わる仕事がしたい。出した答えが、建築学科でした。

  人の行動などに即した建物を研究する建築計画学の恩師と出会う
 鈴木成文助教授(当時)はその一人。公営住宅の標準的な間取り設計に携わった人です。ちゃぶ台のある和室で寝食をしていた時代に、食事もできる洋間の広い台所を考え、ダイニングキッチンの原型になった。卒論を書く4年生の時、鈴木研究室に入りました。庶民の希望に合った住宅設計が大事だという話をよく聞かされました。

 卒業後も勉強を続けたい気持ちが募り、大学院へ。そこで、吉武泰水教授(当時)から声が掛かります。先生が引き受けていた山梨県内の精神科病院の設計グループに加われ、と。

 ところが、他の精神科病院を見学し、患者さんたちの行動を観察するうちに、迷い始めた。果たして自分は患者に本当に寄り添えているのだろうか、と。理想に実力が追いつかず、つまずきました。自分が設計に向いているのか、確信が揺らいだ。

 博士課程には進まず、両親の意向もあって就職することにしました。全国の大学の教員採用予定を聞き、広島大へ紹介状を書いてくれたのは、吉武先生でした。

(2016年12月9日朝刊掲載)

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