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連載・特集

『生きて』 都市・建築研究者 石丸紀興さん(1940年~) <5> 広島大へ

都市計画の調査に奔走

  1966年4月、広島大工学部建築学科の助手に着任した
 工学部は当時、広島市千田町(現中区)にあった。生え抜きの助手の人と相部屋の研究室。ここから私の研究者生活がスタートしました。

 最初に携わったのが、広島市の土地利用現況調査だった。建築学科の助教授が、市と1年間の調査契約をしていて「やらんか」と。市役所にある記録を基に、十何万棟もの建物の面積や構造、用途などを一つ一つ調べて分類し、集計する。住宅か商店か判別できないと、現地に行ってね。これが都市計画の基礎データになる。大学院生と2人で進め、市内の女子大生にも手伝ってもらった。

 行政の仕事をするうち、研究室が手狭になって。店を構えたというと変だけど、着任2年目に大きな部屋をもらった。まだ助手なのに、学生が「石丸研究室」と呼んで、卒論などの相談によくやって来ました。

  68、69年度、最初の広島市総合基本計画の策定に関わる
 大奮闘した計画です。市の職員5、6人と取り組んだ。人口推計や大規模施設の将来構想、学校の配置計画などのテーマごとに、総合基本計画に吸収させるテクニカルリポートを作っていく。住宅や工場を色分けして示す土地利用現況図なんか、ものすごく時間と労力がかかった。担当職員の意気込みも強く、集まっては議論しましたね。

 総合基本計画と並行して、広島地区整備基本計画の話も来た。市町村合併を見据え、広島市と周辺19町村のまちづくりを構想するもの。東京大の研究室が市から引き受け、私も加わった。各町村を回って担当者と話し合い、計画書や図面を作る大変な作業でした。

  この時期、全国の大学で学生紛争が激しさを増した
 広島大の学生も大学の在り方などを批判、追及していた。東京はもっと先鋭的で、都市工学の先生らが攻撃対象になって。コンサルタントみたいに仕事を受けてもいたから、「行政の言いなりに働いとる」ということでしょう。私は直接、責められなかったけど、このままでいいのかと考え込みました。そして71年、調査研究の大転換を図ったんです。

(2016年12月10日朝刊掲載)

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