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連載・特集

『生きて』 都市・建築研究者 石丸紀興さん(1940年~) <10> 基町再開発

地区の歩み 広島語る礎

 基町(広島市中区)を語らずして、被爆地広島の戦後史は語れないと思う。敗戦後のどさくさから、その後の街の復興過程で、都市や社会の課題を抱えてきた地区ですから。

  被爆翌年の1946年、広島県や市が基町の中に中央公園を指定し、当面の住宅対策で木造家屋を建設した。本川沿いには無認可のバラックも立ち並び、最多で千戸を超えた
 バラックが密集した河岸は「相生通り」といわれ、63年ごろから「原爆スラム」とも呼ばれました。暮らしたのは、原爆で家を失った被爆者や外地からの引き揚げ者、市内の復興事業の土地区画整理で立ち退いた人たち。こうした中、県と市が基町再開発を決めた。河岸や公園用地の住民が移り住む場を整備し、最大のものが69年に建設が始まった基町・長寿園高層アパートでした。

 その頃、広島大工学部助手だった私の研究室に大学院生たちが相談に来ました。相生通りの実態調査をしたいと。大学紛争期で、学生が大学や研究の在り方を熱く議論していた。彼らも社会の動きを意識した実践的な研究をしたかったようです。

 調査は70年に実施し、学生がバラック一軒一軒の間取りを調べ、家族構成や職業、暮らしぶりを聞き取っていった。私は市の総合基本計画の策定に関わって手いっぱいでしたが、アドバイスをしたり、わずかだけど調査に付き合ったりしました。

  78年、基町再開発事業が完了する
 そこで79年、今度は高層アパートへ移り住んだ人たちの追跡調査をしようとなった。アンケートで住み心地などを尋ねて。遠方に引っ越した人もいたので、学生と東京までヒアリングに行きました。一連の調査を生かそうと、市の「広島新史」都市文化編(83年刊)に基町のことをずいぶん書かせてもらいましたね。

 現在の中央公園や河岸に、どんな歴史があるのか。それを踏まえ、基町をどうするかで広島の都市の性格も変わるんじゃないかと考えています。地区では今、住民の少子高齢化なども課題。アンケート頼みや政治的に決めるのではなく、思い切った案を出してとことん議論しないと。私もだけど、都市政策関係者の知恵の絞りどころです。

(2016年12月20日朝刊掲載)

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