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社説・コラム

『論』 災害列島と芸能・祭り 「備え」が継承につながる

■論説主幹・佐田尾信作

 東日本大震災の後、東北の祭りを強く意識するようになった。美術家岡本太郎の名著「日本再発見 芸術風土記」に触発されたこともある。60年前の紀行だが、岩手の鹿(しし)踊りの描写などは今読んでも新鮮だ。「鹿」が低い太鼓の音で一斉に踊りだすのを見て―。

 <ドライなジャズの出だしとちょっと似ている。だがはるかに神秘的だ。ジャズは身体がうきうきと動きだしてくるが、こいつは精神がテンドーしはじめる>

 若き日、パリで文化人類学を学んだ太郎は、日本列島の古層にひそむ縄文文化に気付いた。それは仏教伝来以前の原始宗教の名残か、あるいは狩猟民族の面目か―。そうした仮説を携えて東北を旅し、自問し続けた。

 鹿踊りについて<人間―動物。どっちだかわからない。その凄(すご)み>と評してもいる。今風にいえば「生きる力」としての祭りに太郎も感じ入ったのだろう。

 先頃、東京・上野の東京文化財研究所(東文研)で「無形文化遺産と防災」と題したシンポジウムを取材中、1枚の写真に驚かされた。宮城県女川町に伝わる獅子振り(獅子舞)の獅子頭が座布団やスリッパ、空き缶などでできていて「座布団獅子」という。

 本物を津波で流された住民が、避難先で手作りした。震災後の獅子振り披露会では、ほかの獅子頭とともに大切に扱う。つらい時、芸能がいかに心のよりどころとなったかが分かるのだ。

 シンポでは岩手県一関市教委の東資子(あずま・もとこ)が、同県大船渡市の震災犠牲者の百か日法要で、位牌(いはい)や遺影を前に鬼剣舞(けんばい)を演じる様子を紹介した。鬼剣舞はいにしえの死者供養が起源だろう。震災後、死が日常になってしまったからこそ、人々は鎮魂の舞をいち早く取り戻そうとしたのかもしれない。

 岩手、宮城、福島の3県沿岸地域では、東文研が情報収集した無形民俗文化財の9割近くが何らかの形で被災していたという。祭礼道具や御旅所が津波で流される、あるいは原発事故の影響で担い手が離れ離れになる―。さまざまに打撃を受け、しかも被災の実態の全容はつかめていない。

 大災害から無形民俗文化財の防災について何を学ぶべきか。宮本卯之助商店の岡部達也は「祭りの復活には日常の記録が何より大切だ」と言う。幕末に創業した東京・浅草の祭礼道具製造元で働き、被災地の求めに応じて獅子頭、神楽面、太鼓、笛などの復元に奔走してきたキーマンである。

 復元は一筋縄ではいかない。写真があっても、獅子の微妙な目線や顔の凹凸など読み取れないことがある。人々の記憶で補おうとするが、これがまちまちだ。獅子頭の内部や反物のように、あまり写真に残さない部分も苦労する。何度も試作して完成させる。

 祭礼道具は日頃から写真や動画に残し、正確に採寸し、さらにそのデータを多くの人が共有しようと、岡部は呼び掛ける。人が記憶をよみがえらせるためには、形ある手掛かりが必要なのだ。

 こうした取り組みを通じて分かるのは、災害への備えが継承につながるということだろう。身近でも、次のような話を聞く。

 廿日市市宮島の市街地では町ごとに神社や地蔵堂があり、多くは山際や谷の出口にまつられている。その事情に詳しい研究者岡崎環(たまき)は昨年秋の広島民俗学会のシンポで、宮島の街は土石流や山崩れを警戒しなければならないエリアと重なっており、町ごとの祭りの準備や慰労会が日々の暮らしで気を付けることを確かめ合う機会になっている―と指摘した。

 防災対策や復興支援を切り口に、先人の形なき遺産を再発見する機運を高めよう。芸能や祭りの秘めた力を再認識したい。それが災害列島に生きるすべにつながるのではないか。(敬称略)

(2016年12月22日朝刊掲載)

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