×

連載・特集

『生きて』 都市・建築研究者 石丸紀興さん(1940年~) <12> 被爆建物

保存・活用の手だて探る

  1985年、広島市の「広島被爆40年史」の編集に没頭した
 8月の第1回世界平和連帯都市市長会議で配るというんで、市職員たちと3月から実質4カ月弱で編集に取り組みました。猛烈な作業でしたが、私にとって幾つかの研究テーマが浮かんだ。一つが被爆建物です。

 当時、建物の現存情報はまちまちで、統一的なリスト作りから進めました。一方で、被爆建物の解体が報道されていた。旧広島銀行銀山町支店(88年解体)とか。報じられる時は既に取り壊しが決まっている。早く対応しなければと思っていたら、旧日本銀行広島支店の保存を巡る市民運動を知って、この建物から私も関わっていきました。

 89年春、市長宛てに手紙を送った。日銀広島支店を放っておいていいのですか、と。間接的に聞いたんですが、市の当時の考えは「被爆建物が多く残っていると原爆被害が軽くみられる」「原爆ドームがあればいい」という感じらしかった。広島赤十字・原爆病院の保存を求める市民運動も起きていて、集会などに加わるようになりました。

 89年夏、学者らでつくる被爆建造物を考える会の調査委員になる
 われわれ建築部会は、被爆45年の90年8月6日時点で、爆心地から半径5キロ以内に現存する29件(木造を除く)を確認し、報告書に盛り込んだ。この調査は建物の記録保存が目的でしたが、時を同じくして市民の間で、建物自体の保存運動が盛り上がったのは確かです。

 90年3月、市議会が原爆遺跡の保存を求める決議を採択した
 91年夏には市の被爆建物等継承方策検討委員会ができ、私も委員になりました。市民運動の力は大きかったと思う。原爆病院は象徴保存だったけど、旧日銀広島支店は市の重要文化財になり、レストハウスも存廃論議を経て残った。旧広島大理学部1号館は今、私を含めた市の有識者懇談会で協議が続いています。

 どう保存、活用するか。耐震や費用の問題もあって容易じゃない。でも、被爆建物や歴史的建物も含め、建築は街の文化です。それを大切にする気風を広島に育てていかなければなりません。

(2016年12月22日朝刊掲載)

年別アーカイブ