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社説・コラム

『今を読む』 ノンフィクション作家・中田整一 

真珠湾75年と淵田美津雄 憎悪の連鎖 断ち切れたか

 今振り返ると彼ほど数奇な運命をたどった軍人はいない。75年前の12月8日、海軍機動部隊360機を率いてハワイ真珠湾のアメリカ海軍基地を攻撃し「トラ・トラ・トラ(われ奇襲に成功せり)」を打電して一躍有名になった淵田美津雄中佐である。

 戦後、淵田はキリスト教の宣教師となってアメリカに渡った。1952年から15年間、憎しみの連鎖を断つべく平和の伝道者として「ノーモアー・パールハーバー」を訴えて体を張り、かつての敵国の全47州、8万キロに及ぶ和解の旅を続けた。最初のハワイ伝道は53年、日米の戦死者の慰霊が秘めた目的だった。

 ことし秋、米ニュージャージー州に住むマリー・フチダから夫の淵田善彌の悲報が届いた。善彌は淵田の長男である。父親が懸命に書き残した真珠湾攻撃に始まる2千枚超の未発表手記の提供を受け、私が「真珠湾攻撃総隊長の回想」(講談社)を世に出した縁で交際が続いてきた。

 76年に73歳で逝った淵田は最晩年は糖尿病でほぼ失明していた。途中から妻の春子に口述筆記してもらった遺稿は、戦争の惨禍を知り抜いた男の「昭和の遺書」だった。

 淵田には2人の子がいる。彼らは戦後アメリカ国籍を取得した。しかもアメリカ人と結婚して、現在、ひ孫の世代までアメリカ人である。国際結婚を誰よりも喜んだのは淵田だった。国籍を超えて男女が結ばれれば、人種問題も戦争もなくなり世界平和が訪れる、と信じたからだ。

 淵田は遺稿の題名を「夏は近い」と記した。人類の破滅を予言したというキリストの言葉から引き、核戦争への警告をこめていたのである。

 敗戦の年の淵田は、原爆が投下される前日まで広島の爆心地の旅館に滞在していた。本土決戦の準備のため、海軍総隊の航空参謀として広島の第2総軍司令部に出張中だった。ところが8月5日夕、東京からの命令で奈良へ飛んだ。翌日の急報で再度広島に呼び戻された。原爆投下から2日目の広島で、爆弾が原子爆弾であることの確認と被害を大本営に報告するための調査を命じられたのである。

 淵田は手記に「原爆の凶悪無残さについては実際に見たものでなくては、その痛ましさ、むごたらしさは想像も及ばない」「この事実が後日、私をキリスト信仰へと導いて行ったのである」と記した。

 現在、真珠湾には撃沈された戦艦アリゾナが記念館となり、近くに東京湾で日本の降伏調印式の舞台となった戦艦ミズーリが浮かんでいる。アメリカは、75年後の今も開戦と終戦の象徴的な艦船を真珠湾にとどめて「リメンバー・パールハーバー」を忘れてはいない。淵田はミズーリでの降伏調印式にも立ち会って戦争のむなしさをかみしめた。開戦の火ぶたを切った男は敗戦の歴史的瞬間を見届けた。

 淵田は戦後の虚脱の中で、東京裁判の法廷へ証人として通ううちに、人生を変える決定的な人物に出会う。42年日本本土初空襲に参加して捕虜となったドゥーリトル爆撃隊の爆撃手ジェイコブ・ディセイザーである。彼は戦友3人が処刑された後に、日本軍の過酷な収容所生活を生き残り戦後は宣教師となった。

 看守から入手した聖書の一節、「かくてイエスは言いたまふ、父よ、彼らを赦し給へ、その為(な)す処を知らざればなり」(ルカ伝)で敵を赦し、憎しみの連鎖を断つことを悟ったのである。やがて伝道のために日本へ赴いた。

 同じ頃、淵田も渋谷駅で「私は日本の捕虜だった」というディセイザーの贖罪(しょくざい)の書に出会った機縁から彼を知り、聖書の一節に心を奪われて回心したのである。後に2人は生涯の友となった。

 安倍晋三首相が近く戦没者慰霊のため真珠湾を訪れる。ここで歴史の何を語るのか。かつての「大東亜」の国々も日本には厳しい視線を注いでいる。過去を蓄積できない国家や社会は、物事の本質を見る目を失い、歴史の教訓を学ばない。淵田は「たしかに原子爆弾は戦争を終結させた。しかし平和をかちとったのではない」と警告している。

 41年熊本県玉名市生まれ。九州大卒業。NHKで現代史を中心としたドキュメンタリーを制作。退職後は大正大教授を経て執筆に専念。「満州国皇帝の秘録」で毎日出版文化賞、吉田茂賞。「トレイシー 日本兵捕虜秘密尋問所」で講談社ノンフィクション賞。山口市在住。

(2016年12月24日朝刊掲載)

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