被爆証言

吉田美江子さん―「遺言」伝えられぬまま

吉田美江子(よしだ・みえこ)さん(84)=広島県府中町

学校が救護所に。盆ごろまで「戦場」じゃった

 「ヒロコにここにおると言うてくれ」「イチロウに家を守って死んだ、と言うてね」―。被爆後、救護所になった府中国民学校(広島県府中町、現府中小)で、吉田(旧姓難波)美江子さん(84)は、多くの人から「遺言」を託(たく)されました。しかし、どこの誰(だれ)かも分からない状態。伝えられないまま自責の念を抱(かか)えて生きてきました。

 当時12歳。同校の高等科1年でした。1945年8月6日朝は、校友長(生徒会長)として、建物疎開(そかい)作業の準備のため、広島市内に出向きました。義勇隊の人に案内され、鶴見(つるみ)町(現中区)か宝町(同)辺りの建物の事務室(爆心地から約1・5キロ)に入って自己紹介(しょうかい)などをし始めた時です。ダダーンと音がして建物が崩(くず)れてきました。とっさに机の下に潜(もぐ)り込(こ)んで、大けがは免(まぬが)れました。

 崩れた土の臭(にお)いの中、外に出て比治山に向かい、多聞院に着きました。山を越(こ)えて自宅に帰ろうとしましたが、下りの道が木の枝で隠れて分かりません。仕方なく山の西側の電車通りに戻(もど)りました。

 たまたま兵隊のトラックが通り、首の後ろをつかまれ荷台に投(な)げ込まれました。「どこに行くんだろう」。三入(みいり)(現安佐北区)行きと聞き、慌(あわ)てて飛び降りました。

 大正橋を渡り、大洲町(現南区)から地下トンネルを抜(ぬ)けて学校に寄ってから自宅に帰りました。母政美さんは広島駅東にある勤め先の国鉄工機部から帰宅。3歳上で県立広島商業学校(現広島商業高)3年の兄薫さんは、動員先だった日本製鋼所広島工場(西蟹屋町、現南区)の夜勤明けで帰宅途中(とちゅう)の矢賀駅前にいましたが、無事に家に戻って来ていました。

 広島駅の電務区に勤めていた5歳上の姉政枝さんの姿が見えません。兄と捜(さが)しに行きました。東練兵場(現東区)辺りまで来た時です。真っ黒な顔の老人に「難波の美江ちゃんか」と話し掛けられました。よくよく見ると近所の横田さんでした。動けそうにありません。広島駅で、姉が防空壕(ぼうくうごう)に避(ひ)難(なん)しているのを確認した上で、いったん自宅に戻(もど)って乳母車を引いて行き、横田さんを乗せて帰りました。

 その日の夜中、昭和町(現中区)から母のいとこが来ました。妻が建物の下敷(したじ)きになって焼け死んだ、というのです。7日早朝に昭和町に行き、生焼けだった遺体を火葬(かそう)しました。

 救護所になった学校では、歩けない被爆者は担架(たんか)で講堂へ運び、歩ける人は2階の教室へ連れて行きました。教室では同級生と黒板に収容者の住所、名前を書きました。「下手な字でも名前を書いていたから、捜しに来た家族が見つけやすかった」

 負傷者のために麦を切ってストローを作ったり、遺体を大八車で運ぶのを手伝ったり。子どもたちも働きました。「盆ごろまでが『戦場』じゃった」

 学校で遺言を残して亡くなる人々。「『はい』と返事をしたのに、誰にも遺言を伝えられていない。私はうそをついている」。85年の被爆40年を機に慰霊碑(いれいひ)を建てよう、と志しました。あの時、遺体を荼(だ)毘(び)に付した穴があった町役場の前に、です。

 300万円を目標に、84年11月から寄付を募(つの)りましたが、思うようにいきません。翌年春に四国八十八カ所霊場を巡(めぐ)ってからは不思議と集まるようになり、最終的には580万円になりました。「皆(みな)の魂(たましい)が込められた慰霊碑になった」と喜びます。

 2012年まで40年間、町議を務めました。若者たちには「話し合って仲良くする。人の話をちゃんと聞ける人になってほしい。国家間も人も一緒(いっしょ)」と強調します。(二井理江)

私たち10代の感想

つらいことにも価値を

 戦時中や戦後の混乱は、とても大きなものだったと思います。しかし「過去が輝(かがや)い ていると思わなければ、自分がかわいそうだ」と、そのつらささえも大切なものとして受け止める吉田さんの姿勢に感銘(かんめい)を受けました。私もつらいことがあっても価値を見いだし、これからの人生につなげていきたいです。(中2佐藤茜)

前向きに できる事から

 吉田さんは、学校で何人もの被爆者に遺言を頼(たの)まれたけれど、家族に伝えることもできず、ただ「はい」と言うしかなかったそうです。そんな自分を責め、遺言を頼んで亡くなった人たちのために慰霊碑(いれいひ)を建て、前向きに進んでいました。私も被爆者の体験を聞いて若い世代に伝えるなど、できる事をしていきたいです。(中3岡田日菜子)

真偽判断する力が必要

 玉音放送を聞き取れなかった近所の人たちは、「日本が負けたという内容だった」と説明した吉田さんの母親をうそつきだと非難しました。当時の国民がいかに日本の勝利を信(しん)じ込(こ)んでいたかが伝わります。現代の日本には言論統制はありませんが、入ってくる情報の真偽(しんぎ)を自分自身で判断する力が必要です。(高3谷口信乃)

(2017年1月9日朝刊掲載)
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