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ヒロシマの声 ハワイから 被爆者が見た日米首脳真珠湾訪問

 日米開戦の地、真珠湾がある米ハワイには、被爆者が少なくとも110人ほどいる。日系移民の家に生まれ、日本の教育を受けるために渡った先の広島で被爆した人が少なくない。昨年12月28日の日米両首脳の真珠湾訪問をどう受け止めたのか。現地で、かつては敵国だった両国のはざまに揺れた人びとを訪ねた。(田中美千子)

古林さん「時代の変化実感した」

鷲尾さん「戦争はもう嫌ですね」

 オアフ島の東海岸に住む古林百合子さん(90)は、両首脳が並んで犠牲者を悼む姿に「時代の変化を実感した」と喜んだ。「良かったと思う。戦争していいことなんて、何一つないもの」

 両親は、広島からハワイに移民し、農場で働いていた。古林さんが親元を離れ、広島に渡ったのは10歳の時。伯父夫妻と暮らし、広島女子高等師範学校付属山中高等女学校に通っていた18歳の時、学徒動員先の己斐地区(現広島市西区)の軍事工場で被爆した。

 不気味なきのこ雲、大粒の黒い雨、真っ赤に燃える市街地…。今も忘れられないという。山中で一夜を明かした翌日、白島地区(現中区)の自宅に向かう友人に付き添い、爆心地周辺も歩いた。「遺体の山だった。生きたまま川を流される人も見たの。でも何もできなくて…」。友人は金歯だけが残った両親の遺体を見つけ、泣き崩れた。終戦を知った時には「ただただ、ほっとしました」と明かす。

 ハワイに戻ったのは20歳になってから。結婚して4人の子どもを育て上げた。被爆体験を語るようになったのは10年ほど前。請われれば学校にも出向く。「あんな惨めな思いはもう、誰にもしてほしくないから」

 一方で、両首脳の真珠湾訪問にはさほど関心を持てない、との声も聞いた。ホノルル市の鷲尾千枝子さん(92)もその一人。何かが変わるとも思えないという。

 鷲尾さんも日系2世。地御前村(現廿日市市)から移民し、ホノルルでホテル業を成功させた父親の勧めで、広島女学院高等女学校に通った。その父親は旧日本軍の真珠湾攻撃を受け、「敵性外国人」として日系人の収容所に入れられた。家族に何が起きたのか知らないまま、鷲尾さんは、動員先の兵器廠(しょう)の事務所(現南区)で被爆した。

 それでも「のんびり屋だからか、つらい思いはしてこなかった」と笑う。原爆の爆風は受けたが、事務所は比治山の陰にあり、無傷で済んだ。帰国後、収容所を出ていた父とも再会できたという。

 平和への思いを問うと、答えに力がこもった。「戦争はもう嫌ですね」。母親の苦労も口にした。「父を連行され、残された家や子どもを一人で守った。英語もほとんど話せないのにね」。戦争の理不尽さを知る一人として、反戦の思いをにじませた。

竹本さん「トラウマ癒やす一助」

継承に奮闘 2世の決意

 ハワイに住む被爆者の記憶を次代に伝えようと、孤軍奮闘している被爆2世の女性にも出会った。母親が広島原爆に遭った竹本カツミさん(54)=ホノルル市。日米首脳の真珠湾訪問を「戦争被害者のトラウマ(心的外傷)を癒やす一助になった」と歓迎した。

 1941年12月、ホノルルで働いていた祖母は、日本軍の奇襲を受けた真珠湾から立ち上る煙を目撃したという。母の中村栄子さんは、広島女学院高等女学校に通っていた15歳の時、動員先の西蟹屋町(現広島市南区)の事務所内で被爆した。

 竹本さんが母の被爆体験を知ったのは、高校生になってから。広島の医師団による被爆者健診が始まったのがきっかけだった。「ショックだった。母の体に放射線の影響が現れるに違いないと、不安が付きまとった」。以来、ボランティアとして健診を手伝うようになり、被爆2世としての自覚を強めていったという。

 その母は2012年に81歳で亡くなった。竹本さんは15年、自ら立ち上げた非政府組織(NGO)「マラマ被爆者」として、本格的に動き始めた。「マラマ」はハワイ語で「守る」の意味。約25年のキャリアを積んだ州政府のソーシャルワーカーも辞めて、最初に本格的に取り組んだのが、被爆者との交流イベントだった。

 被爆者を乗せたNGOの船がハワイに帰港すると知り、地元住民の船上訪問を持ち掛けた。原爆をテーマにした詩の朗読や、ミュージカルの上演を企画。ミクロネシア連邦の核実験被害者も招待した。情報は口コミで広まり、当日は約250人もの住民が集まり、原爆被害への理解を深めた。

 活動に駆り立てられる背景には、被爆者の高齢化への危機感がある。米国広島・長崎原爆被爆者協会ハワイ支部によると、ハワイ州内の被爆者は約110人。ここ30年余りで半減した。「記憶を受け継ぐのは被爆2世としての使命」と竹本さんは話す。証言のアーカイブ化も構想している。

 広島の市民団体と連携し、ハワイで被爆樹木を植樹することも考えている。協力を要請した地元の政治家や企業の反応も上々だ。「ただ、一般の関心はまだ低い」。活動の傍らハワイ大大学院で教育について研究し、暴力防止を掲げる米シンクタンクの研究員として原爆被害の実態を発信してもいる。「目を向けてもらうためにも、まずは学校などでの植樹を実現させたい」。そう自らを奮い立たせている。

(2017年1月23日朝刊掲載)

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