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連載・特集

[詩のゆくえ] 第1部 峠三吉の遺産 <上> 広島大名誉教授 水島裕雅さん

惨状記した2冊のノート 原爆詩集に結実

 「原爆詩人」と呼ばれる峠三吉(1917~53年)。生誕100年のことし、作品と足跡に再び光が当てられている。文学としての表現はもちろん、絵や社会運動ともリンクさせながら「詩」で核時代に立ち向かった峠が、今に残した「遺産」とは―。研究や継承に取り組む人たちの思いを聞いた。(森田裕美)

 惨状を書き込んだ大小2冊のノート。峠三吉が、被爆した瞬間や直後の惨状もつづった45年1~11月の日記と、「メモ~覚え書~感想」と題し、同年8~9月に記した随意日記だ。

 昨年8月、所蔵する共産党中央委員会(東京)から広島市に寄託された。水島さんが顧問を務める市民団体「広島文学資料保全の会」が仲介し、実現した。

 「人類が初めて体験した悲惨が克明に記され、当時の率直な気持ちも書いている。被爆体験の記録としても第一級であると同時に、今なお人々の心を揺さぶる『原爆詩集』の基ともなった重要資料」。水島さんは力を込める。

 同会は今、市と共同で、峠ら広島の被爆作家による原爆文学資料を国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「世界の記憶」(記憶遺産)に登録するため運動している。

 「世界の記憶」とは、後世に残すべき歴史的な文書や記録。登録されれば国内外で注目され、その記憶を呼び起こすだけでなく、資料の保全や公開が確立する弾みになる。それこそが、水島さんたちの狙いでもある。

 2年に1度登録審査があり、まず国内で推薦候補が2点に絞られる。一昨年の前回は、峠については「原爆詩集」の最終草稿(51年5月10日)、ほかに栗原貞子の創作ノート(45年1月から執筆)、原民喜の原爆被災時の手帳(同年8月6日から執筆)を申請したものの、選に漏れた。

 ことし予定する再申請では、今回寄託された峠のノート2冊を加える方針だ。3作家とも、創作の原点である被爆時や直後の直筆資料がそろった。

 「戦後70年以上が過ぎ、体験者が次々に亡くなっていく中で、未来に残せるのは『言葉』でしょう。記録があれば、後世の人がアクセスできる」。水島さんは、2冊のノートを残した峠にもすでに「同じような問題意識があったのでは」と推し量る。

 B5判の大学ノートを2冊とじた日記の記述は、45年の1月1日から11月19日まで。爆心地から3キロの自宅で被爆した瞬間を、「急にあたりの気配の異様なるを感じ眼をやれば外の面に白光たちこめ(略)焼夷弾だと叫び上衣をひっかけたとたん猛然と家震動し窓硝子微塵に飛び天井裂け落ち片々身に降りかかる」などと、きゃしゃな印象の文字でつづる。

 一方、「メモ~覚え書~感想」は、縦15センチ、横11センチほどの革張りの小さな日記帳に「昭和二十年八月(祖国危機に瀕してより)」と記す。8月6日から9月15日までの出来事や雑感を、日付ではなく「×」で区切りながら、切迫感のある筆致で箇条書きしている。

 「被爆直後から、詩人としていつか書き残さねばと考えていた証しと思う。修正や挿入の跡もあり、持ち歩いて記録したか、帰宅後にまずこのメモを書いてから日記にまとめたのかもしれない」

 これらの記録が、代表作「原爆詩集」に結実するのは被爆から6年後の51年だ。その前年に始まった朝鮮戦争や、トルーマン米大統領の原爆再使用示唆への抗議を込めたとされる。

 詩集冒頭から8編目にある詩「倉庫の記録」は、自身の体験を「その日」から「八日め」まで、ドキュメントのようにうたう。まさに、このノートがモチーフになったと思われる詩だ。

 幼い頃から病弱で、戦前はロマンチックな叙情詩人だった峠。「原爆を文学作品にすることは、人間の理解を超えたとてつもない難題に向き合うこと。ノートは、峠が被爆体験にどう向き合ったのかを明らかにする手掛かりでもある」。水島さんは、臨場感あふれるこれらの資料が広く公開され、多くの人の目に留まることを願う。

みずしま・ひろまさ
 1942年東京都生まれ。広島大名誉教授(比較文学)。2001~10年に活動した「広島に文学館を!市民の会」代表を経て、「広島文学資料保全の会」顧問。千葉県東金市在住。

(2017年1月24日朝刊掲載)

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