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連載・特集

[詩のゆくえ] 第1部 峠三吉の遺産 <下> 峠三吉生誕100年を記念する会代表 土屋時子さん

言葉の力で社会に挑む姿 舞台再演目指す

 市民有志の「峠三吉生誕100年を記念する会」を母体に、詩人峠三吉(1917~53年)の半生がモチーフの戯曲「河(かわ)」をことし、市民劇として再演しようと奔走している。87年に57歳で亡くなった夫の土屋清さんが脚本・演出を担い、63年に初演された作品だ。

 「半世紀以上前の作だけど、テーマはまったく色あせていない。現代の若い世代にもぜひ見てほしい」

 「河」は、48年末から53年初頭の広島が舞台。新しい時代の文化運動を目指す峠が病を押して、詩のサークル「われらの詩(うた)の会」に集まる若者と共に学び、被爆体験の人類史的な意味をつかんでいくさまを青春群像で描く。

 敗戦後、せっかく手にしたはずの平和や民主主義が、大きく揺らいだ時期だ。50年に朝鮮戦争が始まり、再び核兵器が実戦使用されるのではと危機感が高まっていた。国内では警察予備隊(後の自衛隊)が創設され、レッドパージで共産主義者が職場を追われた。米国の極東戦略に組み込まれていった時代でもある。

 占領下、峠たちは厳しい言論弾圧に直面しながら、「詩」に象徴される言葉を武器に、社会を変えようと挑み続ける―。73年に小野宮吉戯曲平和賞を受け、これまでに17劇団32都市で上演されたという。

 土屋さんが「河」と出合ったのは73年。当時、平和記念公園(中区)内にあった広島市公会堂での公演だった。演劇をしていた大学時代に学生運動を体験したものの、「結局何も変えられなかった」と挫折感が残った。卒業後、仕事をしながら詩を書き、生き方を模索していた頃。

 困難な時代に直面し、自分を変革していく若者たちの姿に心打たれた。「世の中を変えるってこういうことなんだと見つけた気がした。生きる指針となった」

 演劇にのめりこむようになり、清さんが主宰する劇団へ。80年には清さんと結婚。「河」とは切っても切れぬ縁になった。

 83年の公演で初めて「河」の舞台に立った。「われらの詩の会」の若手メンバーで、原爆詩「ヒロシマの空」の作者として知られる林幸子さんをモデルにした「市河睦子」役。清さんが亡くなった翌88年には、峠の妻役を演じた。

 「私自身体験していない時代の話だが、彼らの言葉を声に出して演じると、それがまた自分に戻ってくる感覚。演じることで、当時を追体験できた」

 「河」は全4幕。見せ場には、峠や仲間たちの詩がちりばめられている。軸となる一つが、峠の代表作「原爆詩集」にも収められている「一九五〇年の八月六日」。朝鮮戦争のさなか、「反占領軍的」として平和集会が全面的に禁止される中、広島で市民がゲリラ的に開いた集会を、峠が詩にした。

 走りよってくる/走りよってくる/あちらからも こちらからも/腰の拳銃を押えた/警官が 馳けよってくる(中略)一九五〇年八月六日の広島の空を/市民の不安に光りを撒(ま)き/墓地の沈黙に影を映しながら、/平和を愛するあなたの方へ/平和をねがうわたしの方へ/警官をかけよらせながら、/ビラは降る/ビラはふる

 その場の光景が鮮やかに目に浮かぶ。「峠の詩の延長線上には演劇がある。言葉が舞台に乗り、人々の生きた姿を喚起する力がある」と土屋さん。今秋の再演に向け、月1回の勉強会を始め、仲間を募る。

 「一見平和に見えるけど、格差が広がり、差別や暴力が日常に潜み、民主主義が脅かされている現代。自分はどう生きるべきか、峠たちの生き方や言葉に触れ、何かを感じ取ってほしい」(森田裕美)

つちや・ときこ
 1948年広島市南区生まれ。広島女学院大在学中から演劇部で活動。卒業後、司書として同大の図書館に勤務。2009年に退職し、呉市の高校で演劇指導に携わる。「広島文学資料保全の会」代表も務める。中区在住。

(2017年1月26日朝刊掲載)

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