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社説・コラム

港千尋 エマニュエル・リヴァさんを悼む

芸術通じ他者を探究

 芸術に捧(ささ)げられた一生。フランスを代表する名優のひとりとして、映画に舞台に活躍したエマニュエル・リヴァの生涯は、芸術を通して他者を探究する姿をわたしたちに残したように思う。第2次世界大戦で深く傷ついた魂と向き合いつつ、現代の人間が見いだすことの難しい心のはたらきを示したともいえる。

 デビューが20世紀映画の傑作「ヒロシマ・モナムール」(1959年公開、邦題「二十四時間の情事」)となったのは、原作者のマルグリット・デュラスと監督のアラン・レネに見いだされたからでもあるが、文学と映画におけるふたりの巨匠を瞠目(どうもく)させるような才能をすでに秘めていたからでもあるだろう。わたしはその一端を、写真を通じて知るようになった。

 ロケで広島滞在中に彼女が撮影した写真が縁となり、忘れられていた写真の発表を手伝うことになった。復興途上にあった町を精力的に歩き、人々の笑顔を収めた写真には、歴史的にもかけがえのない価値がある。日本とフランスで同時に刊行された写真集「HIROSHIMA1958」は話題となり、展覧会が開かれることになった。2008年、撮影からちょうど半世紀後に広島を再訪したフランス人女優は、「リヴァさん」として大歓迎を受けたのである。その優しいまなざしは、当時写っていた少年や少女たちが展覧会の会場に顔を見せることにもつながったのだった。

 01年以来スクリーンから遠ざかっていたエマニュエル・リヴァが見事にカムバックを果たしたのは、この時の旅がきっかけになったのかもしれない。12年には「愛、アムール」でセザール賞主演女優賞など数々の賞に輝き、2年後にはマルグリット・デュラス原作の舞台で主役を務めて、異例のロングランを記録。体つきは小柄だったが、仕事にかけるエネルギーと情熱は並外れていたというほかない。

 取り組んでいる作品に対する妥協のなさは、日々のニュースや社会状況についても同様で、しっかりした批評精神を持ち続けていた。あまり知られていないが、詩集を出す言葉の人でもあった。どんな場合にも魂の気高さを失わない、稀有(けう)な存在だった。

 だが、広島で出会ったわたしたちにとっては、地元の料理と日本酒に顔をほころばせる、おしゃべり好きなリヴァさんだった。広島をたつ直前、もういちど平和記念公園を歩いた。原爆ドームの前で静かに想(おも)いをはせるリヴァさんの姿に、その表現の中心にはつねに記憶と他者についての問いがあると思った。

 愛と寛容の大切さを見失いつつある時代のなかで、わたしたちがどう振る舞うのか、リヴァさんはいまもきっと見つめていると思う。(写真家、多摩美術大教授)

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 エマニュエル・リヴァさんは1月27日死去、89歳。

(2017年2月1日朝刊掲載)

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