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社説・コラム

『論』 「沈黙」が語るもの 現代に問う 異文化の遭遇

■論説主幹・佐田尾信作

 2時間42分に及ぶ、その映画「沈黙―サイレンス―」は全編にわたって暗く重い。江戸初期の長崎のキリシタン殉教を描くのだから当然だが、それだけに命永らえる役柄がいとおしくもなる。

 脅されただけで棄教した信徒キチジローが、牢(ろう)にいる宣教師ロドリゴに言い分を聞いてくれと懇願し、番人に「おまえはキリシタンじゃなか」と追い払われる場面がある。原作小説の「沈黙」で「俺(おい)のような弱虫あ、どげんしたら良かとでしょうか」と叫ぶジローは、監督スコセッシが最も重視した役柄だ。長く配役が決まらず、監督自ら俳優の窪塚洋介を面談して気に入り、やっと映画化へ歩を進めることができたという。

 作家遠藤周作が原作を発表して50年が過ぎた。市民向け講座でも取り上げてきたカトリック広島教区司祭の肥塚侾司(こえづか・たかし)は「踏み絵を踏んだ者がどんな人生を歩むのか。作家はそこに思いをはせた。その傍らにたたずみ共に苦しむイエス、奇跡を行わない無力なイエスが描かれています」とみる。

 信仰より棄教に主題があるともいえよう。ゆえに日本のカトリック界には複雑な受け止めがあったようだ。映画「沈黙」を特集した信徒向けの雑誌の片隅に、小説「沈黙」の発表当時、教会では禁書の扱いだったと聞くが―という読者からの質問を見つけた。

 問いに対し、教会から批判を受けたという遠藤自身の発言によって広まった話だろう、カトリックの禁書目録はバチカンが1966年に公式に廃止したので「沈黙」の禁書扱いはあり得ない―と編集部は回答。長崎の信徒、遠藤、スコセッシ―それぞれの思いをたどりながら、いま一度「沈黙」に向き合おうと投げかけていた。

 棄教もまた、弱き者の生き方として省みることができるのかもしれない。踏み絵を踏んでも、キチジローが諦めずロドリゴにすがりつく描写を反すうしてみる。

 「沈黙」にはもう一つ、重要なテーマがある。キリスト教には造物主がいるが、日本人にとって神や仏とは何か、という問いだ。それは棄教して日本人名を名乗る元宣教師フェレイラが、ロドリゴに「日本人は人間とは全く隔絶した神を考える能力をもっていない」と諭す場面に象徴されよう。

 この国は沼地であり何を植えても根が腐る―とフェレイラが嘆くと、根は切り取られたのだ―とロドリゴは抗弁する。延々続く問答は、まさに異文化の遭遇だ。

 浄土真宗僧侶で宗教学者の釈徹宗(しゃくてっしゅう)は「遠藤は二つのJ(ジーザスとジャパニーズ)のはざまに苦しんだ人です」という。神の名を借りた絶望的な暴力が世界中に広がる今、スコセッシはこの問答を広く伝えたかったのだと思う。

 映画ではイッセー尾形演じる長崎奉行が「やがてパードレ(ロドリゴ)たちが運んだ切支丹は、その元から離れて得体(えたい)の知れぬものとなっていこう」と予言する。江戸期、信徒たちは村社会の秩序に従い、檀家(だんか)や氏子となりながら、ひそかに信仰を守ってきた。

 しかし開国の世になると、信仰を明らかにした末に弾圧を受けた事件がまたも長崎で起きる。「浦上四番崩れ」だ。新政府によって西国の諸藩に3千人余りが流刑にされ、津和野藩では改心を強いる拷問で37人が命を落とした。

 近世史研究者の大橋幸泰は著書「潜伏キリシタン」で「既存の世俗秩序のもとでは現世利益への期待が望めないとする気持ちが彼らの心にわきあがり、もう一方の来世救済願望が突出した」と浦上信徒たちの心の内を読み解く。

 「得体の知れぬもの」だとしても芯は残っていた。その強さにあらためて感じ入るばかりだ。そして、先の戦争の終わり、浦上上空で原爆はさく裂した。キリスト教の国がもたらした現代の受難までの歴史を、スコセッシに引き続き表現してもらいたいと願う。

 ことしは大政奉還150年の節目だが、四番崩れの発端から150年でもある。「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の世界文化遺産登録への政府推薦も先日決まった。何かの巡り合わせだろう。近代化の議論に一石を投じることになればいい。(敬称略)

(2017年2月2日朝刊掲載)

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