×

連載・特集

元核実験場 環礁の今は 原水協のマーシャル諸島支援同行

 日本原水協は1月10~22日、米国の核実験で被害を受けた中部太平洋のマーシャル諸島に、住民支援のための代表団を派遣した。訪れたのは、ビキニ環礁とともに核実験場となったエニウェトク環礁。実験が繰り返された環礁へ戻った島民たちの健康状態や残留放射能などを調べる活動に同行した。(明知隼二)

住民の甲状腺腫れ多い印象

 エニウェトク環礁はマーシャル諸島の首都マジュロから北西約1100キロにあり、約40の島が連なる。医師や放射線測定の経験が豊富なメンバーたち7人の代表団は、約600人が暮らす環礁最大のエニウェトク島に13~18日に滞在した。

 無料の健康相談会は、島内唯一の商店が入る建物で開き、3日間で10~80代の男女計60人が訪れた。向山新医師(57)=東京都国立市=たちが、尿や血圧の検査、甲状腺の確認のほか、健康上の悩みを聞いた。

 甲状腺をがんで切除する手術を受けていたのは1人で、触診では11人で腫れを確認した。向山医師は「日本での被爆者健診に比べ腫れが多い印象だが、放射線の影響かは断言できない」。ただ、強制移住先のウジェラン環礁から1980年にほぼ一斉に戻って以降、がんで亡くなる人が増えたとの島民の証言もあった。向山医師は「ホールボディーカウンターなどの機器による精密検査が必要だ」と指摘する。

 また、糖尿病とみられる人が多く、血圧も高い傾向があった。エニウェトク環礁の北側は今も居住が禁じられ、住民の食生活は、米国が補償として費用負担する缶詰などの援助物資に頼る。島内で一つしかない診療所のバラチャンドラ・ケニ医師(62)は「食生活が影響している面はあるだろう」とみる。

残留放射線量解明は不十分

 島内の小学校や海岸、住宅の周辺など28カ所では、日本原子力研究開発機構(茨城県東海村)の技術者だった加藤岑生(みねお)さん(72)が放射線量を測定した。ほとんどの地点で毎時0・01マイクロシーベルトで「環境放射線と同じレベル」だった。

 ただ、コンクリート造の建物や教会の基礎部分、飛行場の南端など複数の場所で0・02マイクロシーベルト、海岸に残るコンクリート塊で0・05マイクロシーベルトを記録するなど、ばらつきもあった。加藤さんは「測定結果はそれほど高くないが、今回の線量測定では分からない放射性物質もある。呼吸や食事で体内に取り込む可能性があり、より実態をつかむには土壌や食料の分析も必要だ」と強調した。

 代表団は17日に住民集会を開き、集まった約100人に、健康相談や測定の結果を説明した。参加者からは環礁で捕った魚やココナツなど食料の安全性を懸念する発言が相次いだ。80~90年代に米国の放射線測定の調査を手伝ったというアキン・アルビオスさん(57)は「明確な数値を教えてくれなかった」と不信感をあらわにした。

 原水協の土田弥生事務局次長(59)は「汚染の現状を正しく知るため、米国に情報公開を求めるべきだ。環礁の全面的な除染や補償も、諦めずに要求し続けてほしい」と呼び掛けた。

 原水協は70年代に同諸島への訪問を開始。移住生活が続くロンゲラップ環礁の元住民たちにも、健康相談などの支援をしている。

マーシャル諸島での核実験
 米国は1946~58年、国連の信託統治領だった中部太平洋マーシャル諸島のビキニ、エニウェトクの両環礁で計67回の核実験をした。特に54年3月1日のビキニ環礁での水爆実験「ブラボー」は、広島原爆の約千倍の15メガトンの爆発力で、第五福竜丸など日本のマグロ漁船も被曝(ひばく)したことで知られる。エニウェトク環礁と近海では44回実施し、島民を約200キロ南西のウジェラン環礁に強制移住させた。米国は一部の島を除染後、80年に帰還させたが、環礁北側の島は今も居住が禁じられている。マーシャル諸島は86年に独立した。

(2017年2月6日朝刊掲載)

年別アーカイブ