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社説・コラム

『論』 朝鮮戦争と「黒地の絵」 1950年が見えてくる

■論説主幹・佐田尾信作

 日本には「もう一つの戦後」があると思う。朝鮮戦争の「戦後」だ。むろん日本に戦火が及んだわけではない。「朝鮮特需」なる言葉さえ流布していた。だが「平和日本」の理想が早くも色あせ、今に続く再軍備の時代に突入した意味で、紛れもなく潮目は変わった。2020年は東京五輪・パラリンピックの年だが、朝鮮戦争の勃発から70年の節目でもある―。

 北九州市小倉北区の山麓に、銀色に鈍く光る十字架が立つ。小道の脇に「国際連合軍記念十字架」と刻まれた石碑がたたずみ、朝鮮戦争で国連軍として派兵されて戦死した米兵の墓碑と思えるが、近くに説明板は見当たらない。

 同行した宇部市の記録作家堀雅昭は「見れば巨大な十字架ですが、土地の人に聞いてもよくご存じないようです」と言う。門司築港が始まった1889(明治22)年を近代日本の幕開けとみなす堀は先頃、「関門の近代」(弦書房)を書き下ろしたばかり。この十字架を巡る記述を本文中に見つけた当方が、案内を請うた。

 広島には被爆死した米兵捕虜を悼む銘板があり、沖縄には沖縄戦で殉職した米従軍記者の顕彰碑がある。小倉の十字架は寡聞にして知らなかったが、読んだ記憶がよみがえってきたのは松本清張の短編小説「黒地の絵」だった。

 題材は朝鮮戦争が勃発した1950年に小倉で起きた米兵集団脱走事件である。<米国防省は二十八日韓国の首都ソウルが陥落したことを確認した>と外電の引用から物語は始まり、朝鮮半島を南進する北朝鮮軍を国連軍が押しとどめるために、黒人米兵部隊が小倉の城野(じょうの)キャンプで待機する。

 だが、生きて帰れぬ運命を予感した兵たちは自暴自棄になって小倉祇園祭の夜に脱走し、付近の民家に押し入って乱暴を働いた。妻を陵辱された一人の男はやがて戦死者の遺体を取り扱うキャンプの労務に就き、あの夜の兵士を入れ墨から割り出そうとする―。

 特需に沸く戦後の日本に、悲惨な戦場の現実が垣間見えた。ただ占領下にあっては、ほとんど報道されていない。小倉に住む清張が事件を知ったのも翌日で、丹念な取材に創作を加え「黒地の絵」を発表したのは8年後だった。

 朝鮮戦争当時の門司港は戦死者の遺体が返ってくる一方で、戦車が船積みされた。港でいえば門司だけではない。横浜や神戸も接収されたまま、国連軍の兵員や弾薬などの送り出しに使われた。

 呉や横須賀のような旧軍港は敗戦後、旧軍港市転換法に基づいて「平和産業港湾都市」を宣言したにもかかわらず、この戦争を境に流れは変わる。軍港時代の技術は継承されたにせよ、今は海上自衛隊や在日米海軍の拠点である現実をどう捉えればいいのか。

 ベトナム戦争のような、その後の米国の軍事行動への日本の加担を振り返れば、新たな戦争への暗い予兆に清張は気付いていたのかもしれない。「黒地の絵」のように、絶望の末に暴発した兵士たちも弱き者たちだった。その視点も持ち合わせていたのだろう。

 今、小倉北区の旧陸軍補給廠(しょう)の工員町にあった清張の旧宅は既になく、城野キャンプの跡を長く使った陸上自衛隊城野分屯地も、あか抜けた新都心に再開発されようとしていて昔の面影はない。4年前、清張の人間関係を巡る秘話を取材して地元紙に連載した堀でさえ、その変わりように驚く。

 朝鮮半島の情勢はかつてなく危うい。北朝鮮は在日米軍を標的にミサイル発射実験を行い、米国のトランプ政権は北朝鮮の出方によっては武力行使も否定しないと伝えられる。悪夢が万が一にも現実になれば、今度は「黒地の絵」の時代のような、後方基地としての日本で済むのだろうか。(敬称略)

(2017年3月23日朝刊掲載)

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