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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 篠田恵さん―やせ苦しみ他界した弟

篠田恵(しのだ・めぐみ)さん(85)=広島市中区

元気に生かされとるのは、語り継ぐため

 今年4月、広島市の「被爆体験証言者」として活動を始めた篠田(しのだ)(旧姓世羅(せら))恵(めぐみ)さん(85)=中区=は、2歳だった弟の晴樹ちゃんと姉の幸(さち)代さん(当時17歳)を原爆に奪われました。

 原爆投下から2カ月余りたった1945年10月、骸骨(がいこつ)のようにやせ細った晴樹ちゃんの遺体は、大芝(おおしば)町(現西区)の自宅近くの河原で焼かれました。

 「お経も上げられず、今考えると本当にかわいそうなことをした」と篠田さん。しかし当時は、特別な感情を抱(いだ)きませんでした。「毎日のようにあちらこちらで遺体が焼かれ、感覚がまひしとった」からです。

 広島女子商業学校(現広島翔洋(しょうよう)高)の2年生だった篠田さんは8月6日の朝、同級生と鶴見(つるみ)橋付近(現中区)で建物疎開(そかい)に出る予定でした。ところが寝坊(ねぼう)したため作業を休み、自宅で弟と折り紙をしていました。

 晴樹ちゃんはおしゃべりが上手になり、かわいい盛り。「お婆(ばあ)ちゃん、食べんちゃい」。石うすを借りにきた近所の女性に、弟がいった豆を差し出した瞬間(しゅんかん)、ぶわーっと部屋中に炎(ほのお)が入ってきました。

 爆心地から2・8キロ。障子はめらめらと燃え、畳(たたみ)がすり鉢(ばち)のように落ち、不気味な静けさがしばらく続きました。「恵ちゃーん」。母の声でわれに返った篠田さんが立ち上がると、縁側(えんがわ)にいた母と弟は、腕や足が赤く腫れ、所々焼けただれていました。

 爆心地そばにあった鷹匠(たかじょう)町(現中区本川町)の広島市信用組合(現広島信用金庫)左官町支所へ出勤した幸代さんは、戻(もど)ってきません。翌日篠田さんは、姉を探し求めて、父と一緒(いっしょ)に市内を歩き回りました。

 相生橋の周りは、丸焼けになった遺体がごろごろ転がり、黄色い臓物が飛び出た馬の死体も。弟と同じくらいの小さな子が、母親らしき遺体のそばでじっと座っていました。

 「世羅さんでしょー」。大八車に横たわった全身大やけどの人から声をかけられ、よく見ると、同じクラスの友人でした。鶴見橋一帯の建物疎開作業中に亡くなった女子商の生徒は262人に上る、という資料があります。あの人はどうなったのか。ずっと心に引っかかっています。

 戦争が終わっても苦難が続きました。飛行機を見るたびに「姉ちゃん返せえ」と叫(さけ)んでいた晴樹ちゃんはひどい下痢(げり)に苦しみ、10月22日、母親の腕(うで)の中で息を引き取りました。陸軍被服支廠(りくぐんひふくししょう)に勤めていた父親は職を失い、原爆の後遺症か、顔に皮膚(ひふ)病ができた篠田さんは女子商を退学。2年遅れて、安田女子高に入り直しました。

 先生の薦めで、「原爆の子」(長田新編)に手記を寄せたことはありますが、22歳で結婚し、3人の子育てに追われる中、次第に被爆の記憶から距離(きょり)を置くようになりました。

 高校時代の恩師で、被爆証言を続けた故沼田鈴子(ぬまた・すずこ)さんとも長年、親交を深めました。それでも自らの体験を語ろうとは思いませんでした。「建物疎開を休んだ自分には資格がない」と思っていたからです。

 数年前に膵臓(すいぞう)がんを乗り越(こ)え「元気に生かされとるのは、語り継ぐためじゃ」と強く感じるようになりました。「戦争があったから原爆が落ちた。戦争は本当にむなしい」。体が動く限り命の大切さを伝えていくとともに、今も見つからない姉の遺骨を探し続けるつもりです。(桑島美帆)

私たち10代の感想

戦争は全てを奪い去る

 被爆から2カ月後、篠田さんの2歳の弟はどんどんやせて亡くなりました。食べ物は味のないカボチャしかなく、食べさせようとすると「もうカボチャはいや!」と泣いたそうです。小さいのに本当にかわいそうです。食料も、身の回りの物も、家も、命も、全てを奪(うば)っていく戦争は今後一切起きてほしくないです。(小5武田譲)

罪のない子どもも犠牲

 原爆でお姉さんを失い、家も燃えてなくなってしまった篠田さん。戦後はいつもお腹をすかせていたそうです。いまの暮らしでは想像できません。戦争は、戦場の兵隊だけでなく罪のない子どもも苦しめます。二度と起こさないため、私たちが戦争の恐(おそ)ろしさを知り、伝えていかなければいけないと思いました。(小6大山はるな)

証言の中に熱意感じた

 篠田さんは証言の中で、「学徒動員」といった言葉を分かりやすく言い換(か)えてくれました。戦争の悲惨(ひさん)さを何とか若い世代に分かってほしい、という熱意だと受け止めました。きょうだいを原爆に奪(うば)われた篠田さんの悲しみと、目撃(もくげき)した光景を想像しながら、核兵器の恐(おそ)ろしさに思いを巡らせました。(高1川岸言統)

(2017年5月1日朝刊掲載)

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