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社説・コラム

福島語り部 広島も手本 富岡町3・11を語る会 青木代表に聞く

進む高齢化「伝承できる人を育成」

 広島で被爆体験を話す人たちが「語り部」と呼ばれ始めたのは、少なくとも1970年代にさかのぼる。今は災害や公害を含めた苦難の証言者を指すものとして定着し、「KATARIBE」は国際語となりつつある。福島第1原発事故の被災地にも語り部を名乗る人たちがいる。被爆地との連携と交流を深められないか。全町避難を強いられた福島県富岡町の住民らでつくる「富岡町3・11を語る会」の青木淑子代表(69)に現状を聞いた。(岩崎誠)

 「原発事故は人災。語り継がないと同じ過ちを繰り返してしまう」。2011年の原発事故の避難者が多く暮らす福島県郡山市の事務所で、青木さんは力を込めた。元教員で、今は休校した県立富岡高の校長を4年間、務めた。社会福祉協議会の語り部事業から独立し、発足して2年を迎えた語る会の中心を担う。この3月には東京の外国特派員協会で講演もした。

 会のメンバーは23人。組織強化のために昨年7月にはNPO法人化を果たし、原発事故や避難生活の現実を福島を訪れた人などに語り続ける。その数は16年度で8千人を超えた。

 福島第2原発が立地する富岡町は雇用があり、若者が残るため3世代、4世代同居は当たり前だった。そうした家族の日常はばらばらに分断されてしまう。語りたいことは山ほどあっても短い時間でどう語ればいいか模索が続いたという。行政への批判はあえて控えてきたのは「淡々と自分に起きたことを語れば、聞いた人が怒り、悲しんでくれる」との考え方からだ。

 帰還困難区域を除いた避難指示が4月1日で解除され、人口1万3千人余りの町は岐路を迎えた。家が荒れて住めないなど帰りたくても帰れない人もいる。避難先で家を持ち、もう帰らない人もいる。会は町内にも事務所を置き、視察ツアーも受け入れるが、メンバーで帰還を決めたのは1人だけだ。「町民の気持ちがばらばらで、難しい道が待ち受けることも、そのまま伝えたい」

 早くも福島以外で3・11の記憶が風化し、原発再稼働への動きが加速する。その中での懸案はいつまで今のまま語り続けられるかだ。会には20代の若者もいるが大半は65歳以上。計画した高校生以下のメンバー募集もまだ思うに任せない。

 だからこそ被爆地広島・長崎の長年の継承の取り組みを参考にしたいという。特に広島市の被爆体験伝承者の育成をお手本にしている。「直接、体験していなくても語り手の気持ちを継ぎ、話せる人を育てたい。原発事故が起きればどうなるか、福島の被害は何だったのか。長きにわたって語る礎を築きたい」

 富岡町では語り部を「語り人(べ)」と書く。青木さんたちにとっては会のメンバーだけではない。聞いた人がさらに家族や友人に話し、3・11の教訓を忘れずにいてくれる―。それこそが語り人活動なのだ。

 父の仕事の関係で小学校まで福山市に暮らした。ろう学校の教員時代は生徒とともに広島で平和学習をしたこともある。ただ福島県内の語り部同士の研修会はあるが、会として被爆地との直接の交流はまだない。

(2017年5月22日朝刊掲載)

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