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社説・コラム

『論』 「古希」の第五福竜丸 反核とともに技術伝えよ

■論説主幹 佐田尾信作

 ここは東京都江東区夢の島の「第五福竜丸展示館」。「魚槽に氷を詰め、赤道直下まで出漁したそうです」。この船の展示後の修復に携わった木造文化財の専門家、日塔(にっとう)和彦の案内で甲板から船内に入れてもらった。魚槽は人が立って歩いても十分な天井の高さだ。内壁は断熱構造で、氷を長く貯蔵できたことが分かる。

 <俺は魚と一緒に魚槽に入り、緑色のパラフィン紙を使って魚を丸ごとくるむ。そしてその上をまた木綿の大きな布できちんと巻いて、頭と尻尾を交互に並べながら、間には砕氷をぎっしりとつめ込んで重ねる>

 元乗組員大石又七は手記「死の灰を背負って」(新潮社)につづっている。死の灰とは知らぬ「粉雪」が舞う中の仕事だ。1954年3月1日、太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁で米国は水爆実験を行い、静岡県焼津市のマグロ漁船第五福竜丸は被曝(ひばく)した。

 事件は国内外に衝撃を与えたが、曲折の末、はやぶさ丸と改名して東京水産大の練習船として使われた。67年に廃船処分され、夢の島の岸壁に打ち捨てられていたところを引き上げられ、76年に東京都の展示館が開館する。

 原水爆による惨禍を繰り返すまい、という願いを込めて船体が保存されてきたことは言うまでもない。清掃や海水のくみ出しをして沈没寸前の廃船を救った江東区住民の熱意と、都の保存への決断には、頭が下がるばかりだ。

 一方で、第五福竜丸は近代日本の洋式木造船の歴史を物語る遺産でもある。赤道直下まで出漁するような木造船は今はなく、新たに建造されることもない。第五福竜丸の前身はカツオ漁船の第七事代(ことしろ)丸だが、この船が和歌山県串本町で建造された47年から数えると、ことし「古希」を迎えた。

 展示館に収まった後も、船体保存には難題が付きまとった。浸水したまま放置されていたことに加え、展示の環境も木造船の保存に不向きで、腐食が進んだ。

 日塔や船大工たちは在来の技術で修復に当たり、古い肋骨(ろっこつ)や竜骨は残しながら、新しい材で構造を補強した。反核の象徴にするだけではなく、文化財として筋の通った保存をする。ここにも関係者の見識があったに違いない。

 第五福竜丸には瀬戸内海と縁の深い造船技術が用いられている。部材の隙間の水漏れを防ぐ工事を行う際、マキハダ(槙皮、槙肌)を打ち込むが、これは広島県の大崎上島が一大産地だった。

 この島では奈良県からヒノキの原皮を仕入れて工場でマキハダに加工したほか、行商船で売り歩いた。その工場も閉じて長いが、行商船の船主だった一人を訪ねると「マキハダや船くぎをそろえて得意先を回りました。今でも鵜(う)飼いの船や桟橋に使うための注文がたまにありますよ」と言う。

 展示館はことし「この船をつくろう」と題した企画展を催し、第五福竜丸と同じ木造船の建造工程をたどる。7月には、はやぶさ丸への改造を請け負った三重県伊勢市の船大工を招いて証言を聞く集いを開く。それだけに学芸員の安田和也たちは在来の技術には強い関心を示し、「皆でマキハダを作って打ち込むようなイベントもいいですね」と意気込む。

 船体は本格的な修復を終えて30年を超す。古材や鉄材は腐食やさびがさらに進み、新たな保存対策が求められる。展示館も開館から40年を超すため、雨漏りなど老朽化の対策に加えて、建て替えの検討も必要である。その場合、被曝後に急死した無線長久保山愛吉が働いていた無線室などのレプリカを作り、一般公開してはどうだろうか。一人の船乗りの当たり前の日々にも思いをはせたい。

 なぜこの船を保存しなければならないか、多様な視点で問い直す2017年になるといい。

 展示館には映画監督新藤兼人の言葉が掲げられている。木の文化財の本質を表す遺言と受け止めることもできるはずだ。<第五福竜丸は生きている>(敬称略)

(2017年6月1日朝刊掲載)

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