被爆証言

『記憶を受け継ぐ』 多田信子さん―2歳の弟連れて逃げた

多田信子(ただ・のぶこ)さん(87)=広島市安佐南区

頼んだよと言い残した母。遺言守り通す

 多田(旧姓田中)信子さん(87)は、原爆で両親と妹を一度に亡くしました。生き残った弟の田中秀利さん(74)は当時、2歳になったばかり。15歳の少女の肩(かた)に小さな弟の世話が重くのしかかりました。

 戦前、両親は西引御堂(ひきみど)町(現中区十日市町)でガラス店を営んでいました。広島市立第一高女(市女、現舟入高)の4年生だった多田さんは1945年8月6日の朝、学徒動員先の工場が休みだったため、弟と緑井村(現安佐南区)の父の実家を訪ねる予定でした。

 自宅を出て8時15分に横川駅(現西区)発の可部線に乗り、発車のベルが鳴った瞬間(しゅんかん)、辺りが真っ暗になりました。爆心地から1・6キロ。おんぶしていた弟が「煙(けむ)たいよ」と言ったことを覚えています。無我夢中で弟を連れ出し、歩いて緑井へ。夕方、やっと父の実家にたどり着きました。

 母のミ子(ね)コさん(当時37歳)が、そこに運ばれてきたのは翌7日朝のことです。上半身に大やけどを負った母は、まるで別人。ぶどう柄(がら)のブラウスに見覚えはありますが、まぶたや唇がふくれあがっています。聞けば十日市町の電停で被爆。火の海をはって逃(に)げ、緑井までトラックに乗せられてきたといいます。

 「お母ちゃんじゃない」と弟も怖(こわ)がり、近づこうとしません。「のぶちゃん、お水をちょうだい」と願う母に、恐(おそ)る恐る水を手渡(てわた)すのが精いっぱいでした。

 さらにその日の夕刻、市女の1年生だった妹の好江さん(当時12歳)が、遺体となって帰ってきました。「お姉ちゃんのもんぺを借りて行くね」と爆心地に近い材木町(現中区中島町)での建物疎開(そかい)に参加し、市女の1、2年生約540人とともに原爆の犠牲(ぎせい)になったのです。

 やけどに苦しんだ母は9日、「秀利を頼む」とだけ言い残して、息を引き取りました。遺体は妹と一緒(いっしょ)に河原で焼かれました。父は即死(そくし)したのでしょう。その後、自宅の風呂場(ふろば)があった辺りで骨だけが出てきました。

 さらに悲しみは続きました。もともと病弱だった姉の須美子さんも、父を捜(さが)すため市内を歩き回った影響もあったのか、53年に26歳の若さで亡くなりました。

 今も夢には時折、元気だった頃の母が出てきます。料理や刺しゅうが上手でいつも冗談(じょうだん)を言って子どもたちを笑わせ、3姉妹の髪(かみ)を切ってくれました。原爆投下の2カ月前にはごちそうを用意し、親戚(しんせき)を招いて弟の誕生日を盛大に祝ったことが思い出されます。

 そんな幸せだった一家が崩壊(ほうかい)したのです。終戦後、多田さんは学校に通い続けることを諦めます。将来を案じた親戚からいとことの縁組(えんぐみ)を勧められ、17歳で結婚(けっこん)。2人の子どもに恵まれました。ただ両親を失った弟は、近所の子どもたちに泣かされることもしょっちゅう。母の遺言を忠実に守り、わが子と同様に大切に育てました。

 その弟は広島大卒業後、東洋工業(現マツダ)へ入社します。米国駐在(ちゅうざい)などを経て広島大や安田女子大でも教壇(きょうだん)に立ちました。「両親が見守ってくれたんかねえ」と多田さん。しかし、「一発の原爆で幸せな暮らしが消えた」という心の傷が癒(い)えることは、決してありません。(桑島美帆)

私たち10代の感想

証言から忍耐力感じた

 両親を原爆に奪(うば)われ、幼い弟を育てることになった多田さんは、終戦後しばらくして学校が再開しても、通学することができませんでした。10代の少女にはつらく、私が同じ立場だったら逃(に)げ出していると思います。多田さんは、原爆で人生が一変しました。証言を聞きながら、過酷(かこく)な状況(じょうきょう)を生き抜いた忍耐力(にんたいりょく)を感じました。(中2森本柚衣)

悲劇は繰り返させない

 姉妹で遊んだことや、お母さんの冗談を多田さんは楽しそうに話してくれました。しかし両親が被爆死し、17歳で結婚したことに「仕方がなかった」と顔を曇(くも)らせました。大切な家族や幸せな時間を奪われた悲しみは計り知れません。つらい記憶(きおく)だからこそ次の世代に伝え、二度と繰(く)り返さないようにしたいと思います。(高2沖野加奈)

(2017年6月5日朝刊掲載)
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