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社説・コラム

『論』 原爆アーカイブ オール広島で保存・活用を

■論説副主幹 宮崎智三

 「軽微な事態ではない」。おととい茨城県大洗町の日本原子力研究開発機構の施設で、そう評価される放射性物質の吸引事故が起きた。作業員の肺からプルトニウム239とみられる物質が計測された。核の問題は今ここにある。

 核について何かを語る際、中途半端ではいけないと、あらためて突き付けられたようだ。原爆の被害や核兵器廃絶を国内外に訴え続ける覚悟や姿勢が広島にあるか、そう問われているとさえ思う。

 原爆記録文学の「古典」と言える、少年少女の体験記集「原爆の子」が初めてアフリカ系の言語に訳されたのは最近のことだ。「手記に盛り込まれた核兵器廃絶や平和の訴えは、世界にとっても、ケニアの子どもたちにとっても重要だ」。一部を母国ケニアで使うスワヒリ語に訳したアリ・アタスさんが、その理由を説明してくれた。日本で英語教師などで働く傍ら、この本を知り翻訳を決めた。

 「原爆の子」は、教育学者で広島大教授だった長田(おさだ)新(あらた)氏が教え子と一緒に編集し、原爆投下6年後の1951年に発行された。その後出された文庫本も含め、日本語版は累計27万部を超すロングセラーになっている。10以上の言語に訳され、海外にも広がった。

 長田氏の呼び掛けで集まった、小学生から大学生までの手記は千を超えた。ただ、全文が掲載されたのは105人分にすぎない。一部だけが序文で紹介された人も少なくない。6歳の時に被爆した元原爆資料館長の原田浩さんも、その一人だ。原爆投下の直前、疎開先に向かうため父母らと広島駅で汽車を待っている時の様子が、序文に引用されている。

 小学生の時の自分が原爆についてどう考え、表現していたのか。原田さんは手記をあらためて読んでみたいと、ずっと思い続けてきた。しかし手記は当時、先生を通じて提出したため手元には残っていない。集まった大量の元原稿もどこにいったのか、自らも探してきたが、今なお見つかっていない。出版の10年後に長田氏が亡くなった時に、処分されてしまったのだろうか。

 もし残っていれば―。読んでみたい人は原田さんだけではあるまい。一部しか出版されなかったため、手記の大半は日の目を見ないままだ。もちろん、どう活用するかも忘れてはならないだろう。読んでもらうだけではもったいない。それなりの数が集まっているから、学年別に分析すれば何か共通点が見つかるかもしれない。つくづく残念でならない。

 もちろん活字にして残すだけでは十分ではなかろう。子どもたちの直筆の字を見れば、訴求力は増すに違いない。書いた子どもたちに思いをはせ、その苦しみや無念を想像する。その積み重ねが、原爆の被害を自分のこととして理解することにつながるはずだ。

 今はまだ被爆者から証言を聞くことができる。しかしいずれ直接聞けなくなる日は来る。そんな数十年後のためにも、一次資料を残しておくことの重要性はどれだけ強調してもいいだろう。個々の被爆者や団体などにも眠っている資料があるのではないか。あらためて見直してほしい。

 原爆資料館に寄贈され、展示されている品々を見ても、同じように資料の大切さを感じる。被爆者が着ていた衣服や焼け焦げた弁当、壊れた三輪車などは被爆間もないころの広島では、それほど珍しくなかったかもしれない。年月が過ぎたことで、その価値が磨かれたり、重みの再発見につながったりするのではないだろうか。

 原爆の被害は、破壊力の大きさや犠牲者の多さによってではなく、人間に与えた影響の甚大さを通して語る。それを広島は心掛けてきたのではなかったか。

 世界遺産登録から10年を超す原爆ドームは、当初は保存すべきかどうか賛否が分かれていた。今は東日本大震災の遺構保存で参考にされる存在だ。建物に限らない。行政や大学をはじめオール広島で後世に原爆の被害を伝えるため、アーカイブの拡充と活用が不可欠だ。資金も人材も要るだけに手本となる覚悟が広島にあるか。常に問い続けなければならない。

(2017年6月8日朝刊掲載)

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