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連載・特集

核なき世界への鍵 条約 <2> hibakusha 命懸け訴え 各国に浸透

 広島県被団協(坪井直理事長)の副理事長、池田精子さん(84)=広島市安芸区=は8日、入院先の市内の病院で核兵器禁止条約の採択を知った。1月に脳出血を患い、リハビリ中の身。「被爆者の命懸けの訴えは決して無駄ではなかった。核兵器廃絶に向けて一歩前進した」。ゆっくり紡ぐ言葉に、喜びをにじませた。

 女学校1年だった12歳の時、爆心地から約1・5キロ離れた動員先の鶴見町(現中区)で建物疎開作業中に被爆。大やけどを負い、顔に残ったケロイドの手術を約15回繰り返した。「原爆さえなかったら」と嘆く両親の姿に胸を痛めた。「こんな体験をほかの誰にもさせてはならない」。1956年には被爆者援護のための法律制定を求め、国会請願に臨んだ。その年の5月に県被団協が、8月に日本被団協が結成されていた。

 広島を訪れる修学旅行生のみならず、米国やイタリア、中国など海外にも積極的に出向いて核兵器の廃絶を訴えた。被爆者運動に、証言に、心血を注いだ六十余年。「見せ物のように扱われた苦労もあった。大海に小石を投げるような活動でも、正しいことは勇気を持って言い続けた」。条約の前文に、被爆者の耐えがたい苦しみや廃絶への努力が盛り込まれ、報われた思いがした。

 条約交渉の舞台となった米ニューヨーク。7日、日本被団協の藤森俊希事務局次長(73)は国連本部の議場で条約の採択の瞬間を見届けた。再び被爆者をつくるな、と訴えながら亡くなった多くの人を思い起こしていた。

 1歳で広島の爆心地から約2・3キロで被爆。4番目の姉が原爆死した。戦後の広島で被爆体験集を編み続けた被爆者の3番目の姉、名越(なごや)操さんは廃絶を見ぬまま86年に56歳で逝った。

 条約に「ノーモアヒバクシャ」の訴えを―。3月27日の交渉会議の初日に演説の機会を得て、条約で被爆者に触れるよう各国政府に呼び掛けた。

 あの日、何も託せずに突然命を奪われた死者、心身に傷を負いながら廃絶を訴え続けた被爆者の思い…。72年前に広島で起きたむごい現実とその後も続く苦しみを語り終えると、議場は大きな拍手に包まれた。

 各国から議場に集ったNGOメンバーの姿にも、核兵器廃絶を目指す運動の広がりを感じた。「世界の人たちに後押ししてもらった」と感謝する。日本被団協が6~7月の第2回会議に派遣した被爆者4人の渡航費はインターネット上の寄付で集まった。「今日はスタート。一人一人が変われば世界は変わる」

 日本では、条約採択は七夕の夜だった。「力強い平和のスクラムが組まれる日が遠くないことを祈る」。池田さんは院内に飾る短冊にこうつづっていた。

 毎年交流のあった東京都の私立中学から先月、見舞いの手紙が届いた。証言を待ち望む思いが記され、生徒が手作りした花の押し絵が同封されていた。「まだ、お役に立てる」と復帰に意欲を見せる。証言に使うA4判26枚の原稿を担当医の勧めで音読し、発声のリハビリに役立てている。

 被爆者が投げ続けてきた「小石」は世界各地で静かに波紋を広げていた。「hibakusha」の文字を刻む条約がそれを表している。(野田華奈子、水川恭輔)

(2017年7月10日朝刊掲載)

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