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平和記念式典70年70回 <中> 「ノー・モア・ヒロシマズ」 被爆地から訴え芽吹く

 歴代広島市長による8月6日の平和宣言は、1947年の浜井信三の宣言に始まる。被爆時は40歳の市配給課長だった。炎上する市役所に駆け付けた。

 「原子爆弾によって、わが広島市は一瞬にして潰滅(かいめつ)に帰し、十数万の同胞はその尊き生命を失い(略)しかしながらこれが戦争の継続を断念させ…」。原爆が戦争終結をもたらしたとする米軍の主張と重なるかに見える。だが、投下批判は許されるはずもない。生き残った原爆被害者や遺族は、そう言い聞かせることでしか、計り知れない犠牲を意義づけるすべがなかったのである。  浜井の宣言はこう続く。

 「原子力をもって争う世界戦争は人類の破滅と文明の終末を意味するという真実を世界の人々に明白に認識せしめた」。原爆が絶滅兵器であると警告し、「永遠に戦争を放棄して世界平和の理想を地上に建設しよう」と訴えた。平和宣言の原点、精神はここにある。

英語で看板に

 第1回平和祭は仮装行列やしゃぎり、盆踊りなど関連行事が市内各所で行われる。世界的な写真誌「ライフ」は4ページグラフを組み、「厳かな追悼式の後はカーニバルの雰囲気に包まれた」と伝えた(47年9月1日号)。市民からも「お祭り騒ぎ」の声が出た。

 こうした批判を受け、広島平和祭協会は「祭」の文字を翌年に取り、式典を被爆地からの世界平和運動という性格付けを打ち出す。

 それを「ノー・モア・ヒロシマズ」と表し、48年の平和祭会場には英語看板を掲げた。「再び第二の広島が地上に出現しないよう誠心こめて祈念するものである」。平和宣言の英語版を海外160都市に送った。

 一方、来賓の英連邦軍総司令官は、「広島に下されたこの天罰は軍国主義を追求せる日本国民全体への応復の単なる一部」と述べた(訳文は82年刊の「広島新史資料編Ⅱ」による)。原爆被害を言うことは、日本の戦争責任を回避するものだと厳しくみなされた。

 しかし、「ノー・モア・ヒロシマズ」の訴えは世界へ広がる。この言葉は米国の通信社UP特派員記者が、広島流川教会の谷本清を東京でインタビューし、被爆牧師の活動をそう訳して打電した。48年3月6日付の米軍「星条旗紙」にも掲載された。

 谷本は、世界宗教者の平和大会を8月6日に広島で開きたいと活動していた。UP記事を機に、米北部バプテスト連盟が「世界平和デー」を提唱して運動のスローガンともなった。

小冊子や映画

 広島平和協会が49年10月に日英語版で刊行した「ヒロシマ・フォトアルバム」によると、26カ国で「世界平和デー委員会」が組織された。14ページの小冊子ながら、爆心地から約2・2キロの御幸橋で撮られた被爆直後の市民の惨状や、爆心地一帯の光景も載せている。

 「ノー・モア・ヒロシマズ」を題名にした映画製作も起こった。48年7月、浜井や県土木部長、商工会議所会頭らが集まり、「広島の実態と理想を内外に伝えよう」と製作を決める。

 原爆に親を奪われた子どもたちの暮らしや、復興財源を引き出す49年5月10日の広島平和記念都市建設法の衆院可決、第3回平和祭などをフィルムに収める。

 米国務省は、この映画の内容に神経をとがらせ5月23日、連合国軍総司令部(GHQ)民間情報教育局に報告するよう指示していた。国立国会図書館が収集した「日本占領関係資料」に一連の文書が残る。「当初の脚本は改訂中」。映画の検閲にも当たった情報教育局は6月11日付でこう回答していた。(西本雅実)

(2017年8月3日朝刊掲載)

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