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連載・特集

母の悲しみ 原爆に子を奪われて <下> 伝えるのは、長女鷹尾伏佳子さん(83)=広島市安佐南区

母 勝矢くらさん=1987年、80歳で死去 長男 博司さん=当時17歳 次男 敏郎さん=当時15歳

大切にしていた兄2人の写真。「水を飲ませてやればよかった」

 ぼろぼろの体で、兄2人は広島市仁保町青崎(現南区)のわが家に帰ってきた。体中にガラス片が刺さった長兄博司さん。全身が焼けただれた次兄敏郎(としお)さん。2人ともあえぐように「水、ちょうだい」と求めた。母くらさんは「飲んだら死ぬ」と水の量を抑え、看病を続けた。次兄は4日後、長兄は12日後に力尽きた。

 「思う存分、飲ませてやればよかった」。母のつぶやきを戦後、佳子さんは何度聞いたかしれない。「被爆した人に水を飲ませたら死んでしまうって聞いたから。だから…」。悔やむような、自分を責めるような口ぶりを、今も思い出す。

 被爆の約1年前まで、一家は東京で暮らしていた。2人の兄のまなざしに、いつも守られていたと感じる。友達と遊ぶ時はいつも「佳子ちゃん、行こう」と誘ってくれた。けんかなどした記憶はない。母にとっては自慢の息子たちだっただろう。

 空襲が激しくなり、一家7人は母の実家がある広島市へ転居。翌年の春、青崎国民学校(現青崎小、南区)の6年生だった佳子さんは、級友たちと集団疎開で庄原に移った。そのまま原爆投下の日を迎えた。兄2人の最期は、終戦後に広島へ戻ってから母から伝え聞いた。

 あの朝、博司さんは勤務先である、爆心地から約700メートル離れた小町(現中区)の中国配電(現中国電力)の建物の中にいた。その年の春に就職したばかり。戦時下の厳しい暮らしの中、一家の希望の光だった。博司さんは爆風で倒れた建物の下敷きに。何とかはい出て、約5キロ離れた自宅を目指して歩き始めた。

 大きなやけどはなかったが、無数のガラス片で全身血まみれ。家へと歩いている途中、けが人を乗せた軍のトラックに拾われ、送り届けられた。肉に深く刺さったガラス片は、抜いても抜いてもきりがない。「私が代われるものなら、代わってあげたかった」と母は語っていた。

 もう一人の兄、旧制広陵中(現広陵高)3年生だった敏郎さんは、爆心地から約1・5キロの鶴見町(現中区)付近で被爆した。建物疎開の作業中に猛烈な熱風を浴び、ひどいやけどを負った。もうろうとした意識のまま、やはり長兄と同じように自宅へと歩き始めた。仁保(現南区)辺りで倒れ、知人の知らせで駆け付けた父たちの手で何とか家まで運ばれた。息はあったが、変わり果てた次兄の姿を見て母は崩れ落ちたという。

 80歳で亡くなるまで、母は息子2人の幼い日の写真を大切に持っていた。折に触れて「水を飲ませてやればよかった」とつぶやいた。仏前にはお供えの水を欠かさなかった。

 「考えてみれば、奇跡のような気がします」と佳子さんは語る。爆心地の近くで被爆し、あれほどの重傷を負いながら、2人ともよく自宅へたどり着いた。力を振り絞って母の元まで戻ってきた。途中で息絶えていたら、あの最期の数日間はなかった。町中が大混乱する中、母は息子たちを腕の中でみとることができた。「悲しいけれど、それが兄たちの最後のお母さん孝行だったのかなとも思うんです」(教蓮孝匡)

(2017年8月6日朝刊掲載)

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