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連載・特集

被爆の記憶 僧侶からの伝言 <下> 浄寶寺(広島市中区大手町) 諏訪了我前住職

門徒・親戚らに支えられ 父母の影追い 誓いを新たに

 広島市中区大手町の浄土真宗本願寺派浄寶寺はかつて、爆心地に近い旧中島本町にあった。現在の平和記念公園(中区)で原爆慰霊碑の付近で、墓地を残して全壊、全焼した。

 前住職の諏訪了我さん(84)は当時、中島国民学校(現中島小)6年生。1945年4月から広島県三良坂町(現三次市)の寺に疎開していて助かった。だが、住職だった父令海さん、母クニさん、安芸高等女学校4年生で天満町(西区)の軍需工場に動員されていた姉玲子さんたち家族全員を亡くし1人になった。

 原爆投下翌日の8月7日、「広島の水源地へ1トン爆弾が落ちた。水が出んで困っとる」と知らされた。それから数日後、「広島は全滅らしい」との知らせ。そして終戦。「初めは自分のことと思わず、親きょうだいを失い、広島のほうを向いて泣く子を励ました」。だが、悲しい事実を教師から告げられた。

惨状にぼうぜん

 9月半ばになり、帰郷して見た古里の光景が忘れられない。諏訪さんは「映画館や飲食店、旅館が立ち並び、にぎやかだった繁華街が焼け野原。寂しさと悲しさでぼうぜんとした」と振り返る。

 それからは呉市や広島市内の親戚方で世話になる日々。旧制広島一中(現国泰寺高)を経て舟入高に進んだ。通学しながら、散り散りになった門徒を捜した。境内に残った墓地に参る人がいたため、住所を知らせてもらうよう墨書きの立て札で告知。つくだ煮の瓶にメモ帳と鉛筆を入れて情報を待った。

 門徒の消息は少しずつ分かった。かばんにけさと数珠を入れて通学し、帰り道にお参りしてはつながりを取り戻した。門徒は諏訪さんの顔を見ながら「若さん一人でも生き残ってくださって本当によかった」と、資金面でも助けてくれた。

 「寺を中心に、門徒さん、親戚と人のつながりがあってこそ私は生きてこられた」と諏訪さん。父と毎朝唱えた正信偈(しょうしんげ)、日曜学校で覚えた十二礼を門徒方で勤めた。現在地に換地が決まった後の53年、門信徒の助けを得て木造平屋の本堂を建てた。広島大理学部を3年で中退し、大阪に出て浄土真宗の教えを学んだ。

 一方、両親は遺骨すら見つかっていない。45年4月13日の朝、疎開の見送りに来て広島駅で別れたのが最後。それから長年、亡くなった実感がないままだった。

母が残した短冊

 母の実家からは、被爆の2、3年後、俳句を詠んだ自筆の短冊が出てきた。「生き能(の)びてともにまた見む桜能春」。息子との再会を願う親心がにじむ。少年時代、昼寝に添い寝しては「よい坊さんになってくれ」と頭をなでてくれた父の記憶も鮮明に残る。父母を思うたび、「人の痛みが分かる僧侶に」と誓いを新たにしてきた。

 現役時代は、原爆死没者を悼む法要の導師を務め、法話などで体験も語った。被爆70年の一昨年夏は、中区の本願寺広島別院で大谷光淳門主(40)が導師を務めた「全戦争死没者追悼法要並びに原爆忌70周年法要」で布教し、過去を振り返りながら「人間はなぜ戦争をするのでしょうか。お互いが自らに問うてみなければならない」と説いた。

 よりどころとしてきたのが、阿弥陀経の「共命(ぐみょう)鳥」の教え。体は一つで頭が二つに分かれた鳥の姿を人間に重ね、「私たちは多くのご縁をいただき生かされている。自分と他人は切っても切り離せない一つの存在だが、互いを認め合えない。それが争いの原因。違いを受け入れ、手を取り合いたい」と強調する。

 諏訪さんはがんを患うなどして体調が優れず、最近は表舞台に出る機会が減った。一方、2012年に養子として迎え昨年春に住職を託した義円さん(44)は、原爆資料館で「被爆体験伝承者」として活動し始めた。その姿に「仏様の教えをもとに平和を説き続けてほしい」と願う。(桜井邦彦)

(2017年8月7日朝刊掲載)

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