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連載・特集

[詩(うた)のゆくえ] 第4部 響け平和へ <3> 被爆詩人米田栄作の長男 米田勁草さん

犠牲者悼み 創作再開した父 思い絵筆で継ぐ

 「原爆で失ったわが子の鎮魂、広島の復興…。父の詩には、切なる祈りが流れている」。あの日から72年目の夏。ヒロシマを詩にうたい続けた父、米田栄作(1908~2002年)の代表詩「川よ とわに美しく」の一節をかみしめる。

 ふたたび すばやく美しく甦(よみがえ)ったもの/それは三角州(でるた)をつらぬく川だった//日を趁(お)うて 水脈(みお)は/色濃く冴(さ)えてきた//その色のなかで 私の子は/随分大きくなっただろう

 「私の子」は、被爆当時2歳だった哲郎さん。勁草さんの6歳下の弟だった。「穏やかな詩だが、多くの命を奪った原爆や戦争への怒りが込められていると思う」

 幼い哲郎さんは、爆心地に近い広島市左官町(現中区)の祖父母宅に預けられていた。父の栄作は建物疎開後に移り住んだ段原新町(南区)で被爆。来る日も来る日も哲郎さんを捜したが、見つからなかったという。

 勁草さんは、学童疎開先の安野村(広島県安芸太田町)にいた。原爆投下の1カ月後、焼け野原の広島市へ。翠町(南区)の借家で暮らし始めて間もなく、市近郊で病気療養中の母が亡くなった。度重なる悲しみの中、「父は戦中の沈黙を破り、詩作を再開した」

 栄作が詩に熱中したのは13歳の頃から。仲間と詩誌を編み、画家山路商ら前衛の芸術家と交流した。「詩で食べていこう」と18歳の時に上京したものの断念する。実家の建材店で働きながら詩を書き、1937年に第1詩集「鳩(はと)の夜」を刊行。だが、これを境に詩作から遠ざかった。

 同年の日中戦争から太平洋戦争へ。「戦火は私に詩を書かせなかった」―。戦後、栄作は自身の詩集にそうつづっている。軍国主義に迎合しない、静かな抵抗だったのだろうか。

 原爆に打ちのめされながらも、生きる力と、詩への情熱をかき立てたのは、息吹を取り戻していくデルタの川だった。48年、峠三吉らと広島詩人協会を結成し、詩誌「地核」を発行。「川よ―」「川の鎮魂歌」「星の歌」などを発表し、51年から詩集も刊行していく。

 ただ、その詩は、「ちちをかえせ ははをかえせ」で知られる峠のような強い訴えとは作風を異にする。犠牲者を悼み、平和の祈りが静かにあふれ出すような詩。「原爆詩人と呼ばれるのを嫌がり、政治色もなかった」と勁草さん。一方で、「今書かなければという思いは詩に注いだようだ」と振り返る。

 61年刊行の詩集「八月六日の奏鳴」にある一編。

 きょうもまた、水爆実験が告げられるとき/最大振幅〇・五ミリバールの/異常微気圧振動/揺さぶられ通しだ/<崩れてはならない>広島の砂よ/<眠ってはならない>眼を開くのだ(「火を噴く砂」から)

 91年の湾岸戦争では、こう問い掛けた。

 繰り返させてはならぬことが繰り返されている/繰り返させぬために/ヒロシマよ われらは何を為(な)すべきか(「碑銘余話」から)

 「川よ―」など一部の詩は、作曲家三枝成彰さんたちが合唱曲にし、歌い継がれている。勁草さんも市職員を定年後、絵を習い、父の詩をモチーフに絵筆を振るってきた。2001年から開いた個展は4回を数える。

 「手探りだが、僕なりにヒロシマのメッセージを表現できれば」。言葉をろ過するように書かれた父の詩の、ひそやかだが独自の響きとともに、次代へ手渡したいと願う。(林淳一郎)

よねだ・けいそう
 1937年広島市中区生まれ。61年に同市職員となり、82年から4年間、現在の原爆資料館東館(中区)にあった旧平和記念館長を務めた。97年に退職後、画業に励む。南区在住。

(2017年8月8日朝刊掲載)

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