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光海軍工廠空襲 悼む 光・山口で動員学徒慰霊祭

 終戦前日に米軍による光市の光海軍工廠(しょう)への空襲で犠牲になった動員学徒の慰霊祭が14日、同市と山口市であった。

 光市光井の光井小では、光井国民学校高等科1年だった6人を追悼するため、元動員学徒や同級生たち7人が集まった。空襲が始まった時刻の午後0時20分に流れた追悼サイレンに合わせて1分間、黙とうをささげた。同級生の増本利幸さん(84)=同=は「今でも6人の顔はよく覚えている。平和は本当にありがたい」と話した。

 山口市糸米の山口高では旧制山口中の学生16人の追悼に同級生たち約30人が参列した。代表してあいさつした伊藤健生さん(88)=同市湯田温泉=は「一緒に昼ご飯を食べたけど、先に工廠へ帰った仲間は亡くなった。その時どんな気持ちだったか考えもつかない」と振り返り、「若い人たちは人生を楽しんでほしい」と語った。参列者は校内にある慰霊碑「平和の母子像」に献花し、手を合わせた。(高田果歩、折口慎一郎)

自宅と共に被災の記憶 当時旧制光中2年・末岡さん

「空が真っ黒に」工廠内逃げ惑う

 「生まれ育ったこの家も、空襲を忘れないだろう」。旧制光中2年だった光市中央の末岡誠二さん(85)は1945年8月14日、学徒動員で勤めていた光海軍工廠で激しい空襲に遭った。何とかたどり着いた自宅に今も暮らし、72年前の夏を思い出す。

 工廠跡から北へ約2キロの高台。築110年以上という木造平屋の自宅からは、輝く瀬戸内海や工廠跡に並ぶ武田薬品工業光工場を望むことができる。

 あの日、自宅は直撃されなかったが、爆風で雨戸やふすまが吹き飛び、手のひら大の鉄の破片が降った。「今でも家から海を見ると当時がよみがえる」

 13歳だった末岡さんは同工廠水雷部に配属され、防空壕(ごう)用の穴掘りなどをしていた。8月14日午後0時20分、工廠内の松の木の下で弁当を食べようとしていて、米軍のB29爆撃機の機影が見えた。後で知ったのは、約150機が計約885トンの爆弾を東から西へと工廠内に隙間なく投下した大規模な空爆だった。

 「かんかん照りだったのに、煙が上がって空が真っ黒だった」。末岡さんは防空壕や砂浜など、工廠内を一人で逃げ惑った。自宅へ向かう途中、顔が焼けただれたまま助けを求める人やたくさんの遺体を目にした。「それはもう怖かった」

 夕方になって自宅にたどり着いた。家族に泣きつきたい思いでいっぱいだった。ところが家族は、末岡さんを抱き締めてはくれなかった。「みんなそれほど空虚な気持ちになっていたんだろう」と言い、目を固く閉じた。

 この空襲で動員学徒133人を含む738人が犠牲になった。末岡さんの一つ下の学年で、よく一緒に遊んでいた光井国民学校高等科の1年生6人も命を落とした。末岡さんや同級生たちは73年、6人を慰霊するため国民学校跡地の光井小(同市光井)敷地内に「悠久の碑」を建立。以来、毎年8月14日に慰霊集会を開いている。

 「あと1日早く、敗戦を受け入れていればと何度も思った。それはヒロシマやナガサキも同じ」。国民が忘れられた国家の末路だった。補修しながら住み続ける自宅でことしも、静かにあの日を迎えた。(高田果歩)

(2017年8月15日朝刊掲載)

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