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元戦闘機操縦士 平和訴え 終戦の日 世羅の田中さん

 戦時中、旧日本軍の戦闘機のパイロットとして、約300回搭乗した男性が世羅町小世良にいる。田中光政さん。91歳。多くの仲間が戦死し、生き残った仲間も多くが亡くなった。終戦から72年。「生き延びた者の責任として、平和の大切さを訴えていきたい」と力を込める。(与倉康広)

 右手は棒状の操縦かん、左手はアクセルと機銃のボタンを操作していた。耳を覆う飛行帽で音は遮断されていた。常に周囲を確認しながらの飛行。「注意をしていても敵機に背後を取られたことがある。機体を傾けないようにして、横滑りで回避した」と振り返る。

 1943年4月、17歳で岩国海軍航空隊(岩国市)に入った。佐世保(長崎県)館山(千葉県)郡山(福島県)など全国8カ所の航空隊に所属した。零式艦上戦闘機(ゼロ戦)のほか、二式水上戦闘機や雷電にも搭乗した。主な任務は上空からの見回り飛行と敵機の迎撃。6機程度で隊を組んでいた。

 戦況が悪化するにつれ、出動はほぼ毎日になっていった。「米軍のB29爆撃機が10機、20機と編隊を組んできた。機体の大きさでは到底かなわなかった」。攻撃を受け、弾丸が体の10センチ後ろを貫通したこともある。寝食を共にした同年代の仲間の機体が、火を噴いて落ちていくさまを見たことも。

 45年8月15日、警戒中の機上で終戦を迎えた。「空中戦をもうしなくてもいいと思った。負けたという喪失感より、ほっとした気持ちの方が上回った」

 戦後は故郷の世羅に戻り、役場勤めや木材関係の仕事をして生計をたてた。結婚して子、孫に恵まれ、ひ孫もいる。国のために死ぬのは当たり前と思っていた考えは変わった。

 「72年間、平和な日本でよかった。戦闘機に憧れた自分はもういない」。憲法9条の改正の動きもある中、「戦争を経験したから言える。たとえ憲法を改正したとしても平和は維持するようにしてほしい」と訴える。

(2017年8月15日朝刊掲載)

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