×

ニュース

日章旗 持参しなかった兄 「必ず勝つ 撃て叩け」「不惜身命」 恩師が寄せ書き

防府の児玉さん 形見 「戦争へ小さな抵抗」

 防府市富海の円通寺住職の児玉識さん(84)は、大学生だった兄の尅(こく)さんが終戦間近に戦地へ赴く際、恩師から贈られた日の丸を形見として持っている。そこに記された激励の言葉の一つは「勝つ勝つ必ず勝つ 撃て叩(たた)けそして殺せ」。戦争一色だった当時の空気を戦後72年の今に伝える。(折口慎一郎)

 実家の寺を継ぐはずだった尅さんは1945年2月、満州(現中国東北部)の戦地へ向かった。戦後、旧ソ連に抑留され、そのまま21歳で亡くなった。

 児玉さんが手に取る白い木綿の生地(縦約70センチ、横約80センチ)には、日の丸がミシンで縫い付けられ、その周りに贈る言葉が並ぶ。「不惜身命」「戦必勝攻必取」…。龍谷大(京都市)に通った尅さんの恩師たち10人が書き込んだという。

■宗教家として

 国家神道が国民の行動規範とされた当時、社会全体の流れにあらがうのは難しかった。仏門にいた父は神社である戦勝祈願には否定的で、児玉さんは周囲から向けられる冷ややかな視線を子どもながらに感じたという。

 寄せ書きの日の丸が手元にあるのは、尅さんが戦地に持参しなかったからだ。「『殺しに行くつもりじゃない』と、宗教家としてささやかな抵抗だったのだろう」。児玉さんは兄の心情を思う。

 そんな気持ちを尅さんは表に出さなかった。関東軍の通信隊配属が決まっても、浄土真宗のお経の一節を引用し、「(自らの)最期の電報は『皇軍ハ光顔巍巍(こうげんぎぎ)(光り輝く表情)トシテ死ニツケリ』とする。これなら俺が打ったと分かる」と冗談めかした。家族も万歳はしなかった。

■届いたきり箱

 戦後、人づてに大陸で亡くなったと聞いた。復員局から軽いきり箱が届いた。それから半世紀以上たった2010年、厚生労働省の抑留中死亡者名簿で兄の名前を見つけ、ようやくどこでいつ亡くなったかを知った。

 別れの言葉は、「きょうだい仲良うせえよ」。笑顔だったが、「子どもでもこれで最後だと分かった」。11歳のあの日と同じく識さんは涙ぐんだ。

 「息子が戦地に赴くのを笑顔で万歳した人たちは、心の中ではどう思っていたのだろう」。寄せ書きをあらためて見詰めながら、「今はいろいろな意見が言える。これからも自由に発言できる社会であってほしい」と話した。

(2017年8月16日朝刊掲載)

年別アーカイブ