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連載・特集

『生きて』 医師・広島大名誉教授 鎌田七男さん(1937年~) <4> 炭鉱の町

家族の願い胸に猛勉強

 引き揚げから1年がたつ頃には鹿児島弁にも慣れて、学校では騎馬戦や、出回るようになった軟式ボールでわいわい過ごします。物おじしない性格もあったのでしょう。しかし何より、おふくろが、幼かった僕が父親がいないことで引け目を感じないように育ててくれた。母そめは明治29(1896)年生まれです。暮らしは、三井炭鉱(福岡県田川市の三井田川鉱業所)で働く兄貴たちの仕送りでやりくりしました。

 まず、電気技術を持つ三男が引き揚げ間もなく出稼ぎに向かい、四男、体が丈夫でなかった次男と続いた。僕は中学3年の夏休み明けに、田川市の金川中に転校します。11歳違いの三男、三郎の炭鉱住宅に母と住み、もとは高等女学校だった田川東高(現東鷹(とうよう)高)に進学しました。

  田川市は「炭坑節」の発祥地とされ、三井鉱業所は戦後復興の石炭ブームに沸いた。市制10年の1953年には、従業員1万人余、家族を含めると市人口約9万人の過半数を占めた(54年刊の「田川市誌」)
 落盤事故がひとたび起きれば、生死を分けるのが炭鉱労働です。「どん底」といったら語弊があるかもしれないが、真っ黒になって働く人たちと多感な頃に暮らした。長屋の炭住は共同風呂です。24時間3交代で坑道から上がって来る人たちと湯船でも出会う。五木寛之の小説「青春の門」の世界ですよ。のほほんとした高校生活ではなかったですね。

 夏休みも市の図書館に通って、ひたすら勉強した。子どもを医者にするのが亡きおやじの願いだったんです。長男正巳は「満洲医科大」の卒業前に病死した。僕の生まれる前年です。口にはしないが、おふくろの悲しみも幼い頃から感じていた。

 浪人は許されない。受験雑誌の「蛍雪時代」を繰り、広島大を志願します。定員40人に対して倍率は7・2。迷った。所帯を持った三郎兄貴に相談すると「やってみんと分からん」。その言葉に奮い立ち、さらに猛勉強した。おふくろは脳出血を再び起こして伏せていました。

 55年3月初め、広島駅前・京橋町の宿で泊まるための米穀券を出すと、受験会場の医学部がある呉市阿賀町はまだ先だと言われ、驚いた。広島は全く見知らぬ地でした。

(2017年7月29日朝刊掲載)

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