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連載・特集

『生きて』 医師・広島大名誉教授 鎌田七男さん(1937年~) <7> 米国留学

被爆地を見直す契機に

  広島大原爆放射能医学研究所の助手となって6年目の1967年、米カリフォルニア大へ留学する
 朝長正允教授が65年、母校の長崎大に新設された原医研へ転任されたため、京都大講師の内野治人さんが「臨床第一研究部門」の教授として来られた。自らが米国で研究を積まれたこともあり、医局メンバーに留学を盛んに勧められました。

 1ドルは360円、外貨の持ち出し制限があった頃です。僕は教授のつてを頼るのではなく、自分で探しました。世界の名だたる教授に6通の手紙を書いて送った。すると「移民ビザを持って来れば雇う」と返ってきたのが、カリフォルニア大サンフランシスコ・メディカル・センターでした。神戸の米国領事館に通い、染色体分析の特殊技術者として就労可能なビザを手にします。

 羽田をプロペラ機で飛び立ったのは67年12月20日。給油地のハワイでは、日系人向けのラジオ局に連れて行かれ、被爆者や広島のことについて話をしました。ちょうどこの年の1月に所帯を持ち、長男が生まれたので妻子は半年後に来ます。

 センターでの僕のボスはジョージ・ブレッカーといい、血小板数算定方法の創設者です。スタッフが120人もいる検査室を率いていた。彼は、ヒトの染色体数は46本だと56年に明確にした中国系チヨ博士の友人でもあった。博士はワシントンから来ると僕の実験データを見てくれ、アドバイスもしてくれました。

 リンパ球を分裂させる薬一つとっても簡単に手に入る。日本では輸入手続きをして3、4カ月待つ。日米の差を痛感しましたね。一方、バスに乗ると白人と黒人で席が分けられていた。丸2年の留学生活は長女も生まれ、研究仲間もでき、米国社会の病理も知ったといえます。

 研究者としては、海外発の論文を追試して日本版を発表するようなまねはしない、と思ったことですね。集団検診は被爆者から始まり、原医研は貴重なデータを積み上げている。広島に根差す研究に挑む契機になった。「骨髄性細胞染色体に及ぼす放射線の影響」という英語論文を70年に長崎大へ提出し、博士号を得ました。広島大は大学紛争の処理で審査どころではなかった。

(2017年8月3日朝刊掲載)

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