×

連載・特集

空襲犠牲者 名前を刻む 千葉・神戸 市民が碑建立 更新重ね

 大戦末期、全国各地は度重なる米軍空襲で甚大な被害を受けた。命を絶たれた人たちの名前を突き止め、名簿にして碑に刻む。そんな活動が神戸市や千葉市の市民団体の手で最近、実を結んでいる。広島・長崎の原爆や沖縄戦以外の戦災死没者の解明は、国などの後ろ向きな姿勢もあって遅れたままだ。戦後72年を経て犠牲の重さを心に刻み、不戦の誓いとする営みの意味を探る。(岩崎誠)

 この19、20日に千葉市で「空襲・戦災を記録する会全国連絡会議」の千葉大会が開かれた。各地で実態を調査する市民団体が持ち回りで開く集会だ。地元の在野の空襲研究者、伊藤章夫さん(75)は同市内の空襲犠牲者を追悼する「刻銘式平和祈念碑」を報告した。

 中心部の丘にある亥鼻公園の一角を市から借り、戦後70年の2015年に市民有志の建立実行委員会が募金300万円を募って完成させた。「七夕空襲」と呼ばれる1945年7月6日深夜から7日にかけての市街地空襲をはじめ、市内では約900人の犠牲者が出たとみられる。高さ2メートルの碑は、その名を前面のステンレス板に刻んでいる。

数字ではなく

 碑の建立のために既存の文献や市民からの情報提供で名前を積み上げた。「数字ではなく誰が死んだのかを明らかにしないと戦災死者は永久に軽視される。命が軽く見られるなら戦争を防げない」。碑を守る会で代表を務める伊藤さんらの思いだ。現時点で刻む名は計714人。名簿は毎年、冊子にして公開し、さらなる情報を求めている。

 「碑を建てたらおしまいではない」と伊藤さん。既に2回にわたり、計46人を追加した。プレートを継ぎ足し、名前の誤りに金属片を張り…。見た目は美しくはないが、そこにこそ運動の意義があるという。名簿の更新と追加を重ね、いまだ名前すら分からない残る約200人の犠牲者も掘り起こし、この世に確かに生きた証しにする構えだ。

 千葉の取り組みがモデルとしたのは市民団体「神戸空襲を記録する会」の活動だ。神戸市の大倉山公園に13年に除幕した「いのちと平和の碑」である。市民の手による死没者名簿づくりと刻銘碑建立をセットにした運動スタイル。建立後の追加を加え、刻む名前は2千人を超す。当時、神戸にいて空襲に巻き込まれた外国人の名もある。

 アニメ「火垂(ほた)るの墓」で知られる一連の神戸空襲ははっきりとした死者数が不明だ。同会は70年代からの民間レベルの調査を踏まえ、戦後60年を機に名簿作成に入ったが全容解明は遠い。「犠牲者は8千人以上ともいわれるが、まだ4分の1の名前しかなく、粘り強く調査を続けたい」。長く活動に携わった母の思いを継ぐ代表の中田政子さん(71)は言う。自身も空襲で姉を亡くした。

市も呼び掛け

 神戸の活動はもう一つ特色がある。名簿作成に行政が協力しない千葉と違い、碑に刻むための情報提供呼び掛けを神戸市が担い、官民が連携している点だ。

 碑の刻銘板には、何千人分でも名前が入るスペースを空けている。今後の判明に備えるとともに「空襲の実態解明に大きな空白があることを知ってほしい」との思いがあるという。

 神戸と千葉の刻銘碑に共通するのはフルネームが分からず、断片的な情報でも対象とすることだ。判明した情報だけ示し、正確な名前が分かれば反映させていく柔軟な姿勢である。

 例えば神戸の碑には「よっちゃん」と愛称で記した犠牲者がいる。千葉の碑には「豆腐屋裏家族3人」や「花屋手伝い」という表記まで。身近な死者を悼む地域の記憶をそのまま映す。「厳密さにこだわる行政にはできない、民間ならではの手法」と中田さん、伊藤さんは口をそろえる。こうした運動は中国地方で米空襲に見舞われた地域では、まだ広がっていない。

  --------------------

惨禍 風化の一途 自治体で対応に差

 米軍のB29による都市爆撃をはじめ空襲の犠牲は津々浦々に及んだ。国会では超党派の議員連盟の手で、空襲被害者の一部を救済する法案を提出する動きもあるが、惨禍の記憶は歳月とともに風化しつつある。

 空襲犠牲者の掘り起こしは民間が主体だ。福山空襲を記録する会が1975年に出版した「福山空襲の記録」に300人を超す死没者名簿を収録するなど各地で一定の成果が生まれた。

 調査に苦労する市民団体には「本来、国や自治体がやるべきこと」との声も強い。国が実態調査も救済も一貫して消極的な中、自治体の対応も温度差がある。

 原爆死没者は別だ。国も実態調査をし、広島市も名前を1人ずつ積み上げる動態調査を続ける。死没者名簿は非公開だが、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に登録した名前と遺影は公開されている。だが一般戦災と呼ばれる空襲についての調査は明らかに不十分だ。

 公式な名簿を作り続ける自治体もある。東京大空襲で約10万人が亡くなった東京都の犠牲者名簿は既に8万人分を超えた。ただ関係者の問い合わせに応じるだけで公開していない。

 注目されるのが岡山市の積極姿勢だ。2004年から毎年の戦没者追悼式で奉納する名簿を作成し、岡山空襲の犠牲者の調査を継続する。死者は2千人以上という見方もあるが、ことし新たに掲載した7人を加え、計1460人まで積み上げた。式の会場のほか、市福祉援護課で常に閲覧できる。

 大阪府・市が出資した公益財団法人が運営する施設「ピースおおさか」でも、大阪空襲の死者9千人以上の名を銘板に記すモニュメントを、名簿とともに展示する。24万人を超す沖縄戦犠牲者の名を刻む沖縄県の「平和の礎(いしじ)」の発想は息づいている。

 ただ、個人情報保護を口実に名簿などの非公開の流れは強まりかねない。東京大空襲・戦災資料センター主任研究員の山辺昌彦さん(71)は「名前を公開すれば、どうして空襲で死んだかの背景が分かる。それを碑のようにいつでも見に行ける場所に刻むのも大きな意味がある。公的な碑が難しいなら神戸のように市民が主体となり、行政が協力する形が望ましい」と指摘する。

(2017年8月28日朝刊掲載)

年別アーカイブ