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社説・コラム

社説 真珠湾での原爆展 廃絶へとつなぐために

 広島市中区の原爆資料館が被爆75年となる2020年夏に米ハワイ・真珠湾で原爆展を催す方向で、現地のアリゾナ記念館と協議に入った。

 「ノーモア・ヒロシマ」と言えば、「リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘れるな)」と返ってくる―。被爆地と日米開戦の舞台という両地はこれまで、不毛な議論の応酬で引き合いに出されてきた。

 真珠湾以外にも、原爆が開発された米ニューメキシコ州ロスアラモスにある博物館も開催候補地に含めている。因縁の地だからこそ正面切って被爆の実態を伝えるべきだとの信念が、構想にはこもる。意欲的な試みをぜひとも実現させたい。

 平らな道ではない。米国社会には原爆投下の正当性を言い張る声が根強くある。

 被爆50年の1995年、ワシントンの国立スミソニアン航空宇宙博物館が、原爆を投下したB29爆撃機「エノラ・ゲイ」の特別展に併せた原爆展を考えたものの、退役軍人団体の強い反対で中止に追い込まれた。

 だが、今回の打診に回った志賀賢治館長は「さまざまな視点から歴史を見ようとする」米側の変化を感じたという。

 はた目には、ハワイ出身のオバマ前米大統領の影響による変化と映るかもしれない。被爆地広島を昨年訪れ、真珠湾にも安倍晋三首相と訪問した。高年齢に伴う退役軍人団体の弱体化を挙げる向きもある。

 それ以上に無視できないのは、米本土の各地で地道に輪を広げてきた原爆展だろう。ワシントンで頓挫して以降、広島市や心ある市民が進めてきた。粘り強い取り組みが、今回の素地となったのではないか。だからこそ既に13年から、「原爆の子の像」のモデル、佐々木禎子さんの手による折り鶴が真珠湾に展示されているのである。

 被爆地からは、大きく二つの成果を見据えていよう。一つは歴史に向き合う姿勢である。

 94年の広島アジア競技大会で迎えたアジア諸国の人々が、日本の戦争責任を指摘しつつも、被爆の惨状に衝撃を受けていた姿を思い出す。

 きのこ雲の下で銃後の市民がどんな惨劇に巻き込まれ、戦後も長らく、塗炭の苦しみを余儀なくされてきたか。核保有国の市民こそ、非道の極みを目の当たりにする必要がある。

 もう一つの意義は、核兵器廃絶という課題の共有である。

 被爆地の宿願である核兵器禁止条約の署名、批准には残念ながら、日米両政府とも背を向けている。せめて市民レベルでは原爆展を通し、その犠牲に共通理解を持ちたい。廃絶への意思を固める土壌づくりに資する意味は小さくない。

 資料の展示に限らず、解説ボランティアや被爆体験の証言者を広島や長崎から派遣することを考えてはどうだろう。移民社会で日系人も多い現地ハワイには、被爆者もいる。掘り起こして、原爆展で何か、出番を用意する手もあるのではないか。

 今回、原爆展の構想は、館長間の相互訪問が下地になったと聞く。加害、被害の相克を超え、歴史に向き合える人材を長い目で育むためにも、学芸員の交換派遣や相互交流なども視野に入れておくべきだろう。

 歴史に学び、核廃絶へとつなぐ力としたい。

(2017年9月23日朝刊掲載)

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