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連載・特集

[核なき世界への鍵 禁止条約に思う] 被爆者 矢野美耶古さん

死者の無念を晴らして

 核兵器禁止条約の前文に「hibakusha」という言葉が入った。被爆者の訴えがやっとここまで来た、と本当にうれしい。

 提案したのはオーストリアだと聞いた。思い出したのが、3年前にオーストリア外務省の軍縮担当として広島に来たクメントさん。広島市立第一高等女学校(現舟入高)の慰霊碑の前で、私が母校の被害を説明すると熱心に聞いていた。非人道性への怒りや廃絶への決意を語ってくれた。

  ≪広島市中区の平和記念公園南側に立つ市女の碑は、原爆で犠牲になった生徒・教職員676人の名前を刻む。自身は市女2年だった時、爆心地から約4キロの自宅にいて被爆した。≫

 「8月6日」は、おなかが痛くて。今の市女の碑がある一帯であった建物疎開の作業を休んだ。原爆が落とされ、お宮だった実家には、やけどを負ったけが人たちが次々と逃げてきて、息を引き取った。たくさんの遺体を焼いた。

 作業に出た同級生たちの「全滅」は9月に登校して初めて知った。一部の先生や遺族から「おい、生き残り」「さぼった非国民」などと言われ…。つらくて、私も死のうと思った。何年も原爆から目をそらした。

 変わったのは被爆から約20年後、被爆者の名越(なごや)操さんの手記を読んでから。市女1年の妹の被爆死から原爆・戦争反対を訴える内容に心を打たれた。本人に会うと「よう生きとったねえ」と喜んでくれた。名越さんと被爆手記集「木の葉のように焼かれて」の編集をし、証言もするようになった。

 ≪米ニューヨークの国連本部での条約交渉会議で、名越さんの弟の藤森俊希さん(73)が被爆者代表で演説。矢野さんの証言を聴いた広島の被爆3世も渡米してデモ行進に参加した。≫

 名越さんは、86年に56歳で肝硬変で亡くなる前に言った。「核がなくなったと聞けずに死ぬのが、一番悔しい」。多くの被爆者たちが訴えのかなわぬまま既に亡くなった。禁止条約で廃絶を実現させ、悔しさ、無念を晴らさないといけない。

 にもかかわらず、日本政府が条約に入らないといい、怒りが収まらない。首相が繰り返す「国難」。戦争が正当化され、国のために死ぬのが名誉とされた戦時中に何度も聞いた。政府は今、北朝鮮への軍事攻撃をも選択肢にする米国の姿勢を正さず、核兵器を絶対使ってはならないとの声も聞かれない。

 世界の誰にも同じ思いをさせてはならない。被爆者が訴える「誰にも」の意味を、日本政府が分かっていないとは。やはり怒りしかない。(聞き手は水川恭輔)

やの・みやこ
 1931年、広島市生まれ。広島県被団協(佐久間邦彦理事長)の副理事長などを経て、2010年から常任理事。同被団協の平和学習講師として修学旅行生たちに被爆体験を証言している。

(2017年9月30日朝刊掲載)

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