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連載・特集

無言館20年 <上> 信州の丘で

 長野県上田市にある戦没画学生慰霊美術館「無言館」が開館して20年がたった。太平洋戦争や日中戦争によって志半ばで亡くなった画学生や若き画家たちの作品は、今も心を揺さぶる。同館の所蔵作品約130点と遺品を集め、呉市立美術館で開催中の特別展「無言館 遺(のこ)された絵画展」に合わせ、現地を訪ねた。(鈴木大介)

絶望と希望 せめぎ合う 戦没画学生 遺作の訴え

 上田市郊外の丘に無言館は立つ。コンクリート打ちっ放しのシンプルな外観の平屋に入ると、館名と響き合うように、張り詰めた空気が漂う。

 祖母や妹の姿、家族だんらんの様子、自然豊かな古里の風景などを描いた作品が並ぶ。戦地から家族に宛てた手紙、愛用した絵筆やパレットなどの遺品もある。大阪市から訪れた鎌田晋介さん(69)は「画家としての将来を戦争で断たれた無念さが、絵からにじみ出るようだ」と展示を見つめた。

 周南市出身の原田新(1919~43年)と山口県平生町出身の久保克彦(1918~44年)の絵は、隣り合わせに飾ってあった。親友だったという2人は東京美術学校(美校、現東京芸術大)出身。工芸科図案部の久保が在学中に原田の妹をモデルに描いたとされる服飾デザインのスケッチは、しゃれた洋装で彩色も施されている。

 作品には、館主の窪島誠一郎さん(75)が遺族らから生前の様子を聞き取った逸話も添えられている。戦地に赴く直前までキャンバスに向かっていたことを思わせる記述が少なくない。

 沖縄で戦死した渡辺武(1916~45年)の説明書き。「せめてこの絵具を使い切ってから征きたい。見守る両親にそう言いながら、なかなか絵筆を置こうとしなかった。外では近所の人の出征兵士を送る万歳がきこえていた。さ、早く、せかせる父のそばで母が泣いていた」―。

 窪島さんは「無言館の絵は、未熟で発展途上。でも、絵が一堂に会した時、『もっと描きたい、もっと生きたい』という声がコーラスのように聞こえてくる」と語る。

 無言館の建設は、早世した画家の絵を収めた「信濃デッサン館」(上田市)を運営していた窪島さんが、洋画家野見山暁治さん(96)と出会ったことがきっかけとなった。美校を繰り上げ卒業し徴兵された野見山さんが「才能ある多くの仲間が戦死した。このままでは彼らの絵が消えてしまう」と嘆くのを聞いた。2人で遺族を訪ね歩き、作品を集めた。

 窪島さんは「戦後50年を迎える頃で、本人の親世代が亡くなり、作品を残していくタイムリミットが迫っていた」と振り返る。制作への情熱や夢を断ち切った戦争の不条理。どんな思いで絵を描いていたのだろう。限られた時間を精いっぱい生きているか、彼らに問われている気がしたという。

 ただ、「反戦平和の美術館ではない」と窪島さん。「戦争を起こした人間の愚かさと同時に、愛する人の絵をひたむきに描き続けた表現者としての誇り。絶望と希望がせめぎ合っている場所でありたい」

 1997年に開館した無言館の存在が知られていく中で、所蔵品は増え、現在は約130人の700点に上る。2008年には第2展示館「傷ついた画布のドーム」も設けた。一方で、年々進む絵や遺品の劣化にも直面している。修復・保存費用を確保するため、13年に「絵繕い基金」を創設し、寄付を募る。

 「せめて1人1点は保存したい。それは無言館を存続させるよりも大きな使命」と窪島さんは考えている。

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 呉市立美術館の「無言館 遺された絵画展」は中国新聞社などの主催で11月19日まで。火曜休館。

(2017年10月13日朝刊掲載)

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