被爆証言

『記憶を受け継ぐ』 久永洪さん―ガラス片 血まみれの父

久永洪(ひさなが・ひろし)さん(83)=広島市西区

継いだ工場の煙突 体験忘れまいと使う

 「伝えていかんと風化してしまう。発信せにゃいけん」―。金箔(きんぱく)や銀箔(ぎんぱく)の壁紙(かべがみ)を製造する地場メーカー、歴清社の相談役の久永洪さん(83)は、12年前に家業の社長を退いた後も毎年、従業員の前で被爆体験を語っています。

 あの日は五日市国民学校(現五日市小)の5年生でした。父の清次郎さんは現在の会社がある三篠(みささ)本町(現西区三篠町)で工場を営み、自分は母の里の五日市町(現佐伯区)に疎開(そかい)していました。

 1945年8月6日の朝は月曜の朝礼が終わり、校庭で隊列を組んで教室へ戻(もど)る途中でした。突然(とつぜん)、東の空がピカッと光りました。すごく強烈(きょうれつ)な光だったと覚えています。「伏(ふ)せえ」。先生の叫び声で反射的に手で目と鼻をふさぎ、うつぶせになりました。

 爆心地から離(はな)れていても五日市町では大きな被害(ひがい)が出たのです。しばらくして顔を上げると教室の窓ガラスは割れ、その破片が刺(さ)さった児童が2、3人、見えました。

 爆心地から2・2キロの自宅には、両親と祖母、姉、叔父(おじ)と従業員が残っていました。後で父から聞いた話では原爆が落ちた瞬間(しゅんかん)、ドカーンという強い衝撃(しょうげき)を感じ、工場と自宅の天井(てんじょう)や窓ガラスが吹(ふ)き飛んだそうです。父は腕(うで)の半分がガラスの破片でそがれ、たくさんの血が出たといいます。

 意識がもうろうとする父は「もうわしはいい。この工場と運命を共にする。早く逃(に)げろ」と動こうとしませんでしたが、母が必死で布団に乗せ、引きずって運び出しました。父は臨時救護所に収容され、一命を取り留めました。しかし血だらけの息子にショックを受けた祖母は、避難(ひなん)中、息を引き取りました。

 久永さんが疎開先から自宅に戻ったのは終戦前日の8月14日のことです。入市被爆に当たります。1週間以上たったのにあちこちで火がくすぶり、うじが湧(わ)いた遺体が転がり、異臭(いしゅう)がただよっていました。

 5階建ての工場と隣(となり)の自宅は焼失し、高さ27メートルの煙突(えんとつ)と倉庫が焼け野原に残っていました。「なんともいえず寂(さび)しい気持ちがこみ上げた」と久永さん。「物心がついてからずっと、被爆体験を背負ってきた気がする」と振(ふ)り返ります。

 父親は徐々(じょじょ)に回復し、戦後の物不足の中で屋根の防水材を作ったり、松根油(しょうこんゆ)で木船用の塗料(とりょう)を作ったりして商売を広げました。「教科書も何もなく学校は机と黒板だけ。勉強どころじゃなかった」といいます。

 それでも広島大を出て父の会社に入り、81年に兄から経営を引き継(つ)ぎました。家族の被爆体験と苦労を忘れまいと、原爆に耐(た)えた煙突や倉庫は大切に守ってきました。貴重な被爆建造物である煙突は換気口(かんきこう)として今なお、使っています。ここで生まれた壁紙は帝国(ていこく)ホテルなどのほか、海外でも使われています。

 ゼロから出発した証しを残すため、93年に新設したショールームの玄関(げんかん)にも、当時自宅にあった焼け跡の残る石灯籠(どうろう)の一部をはめ込みました。

 「おやじとおふくろの懸命な思いが、新たな歴史を刻むスタートになった。被爆したことで、その後に得られた平和への願いはものすごく強い」。現在は6代目の社長の時代を迎えていますが、あの原爆をいつまでも語(かた)り継いでほしいと願っています。(桑島美帆)

私たち10代の感想

復興の歩み 大切な記憶

 原爆で工場が壊滅(かいめつ)状態になった久永さんのお父さんは戦後、屋根に使う防水材の製造などを経て、家族総出で金箔の壁紙造りを再開し、少しずつ軌道に乗せました。「金には平和や希望を感じさせる力がある」と久永さんは強調します。家業の再開はまさに平和や復興の象徴(しょうちょう)であり、人々の希望でもあったはずです。復興の歩みも、ヒロシマの記憶の一部だと感じました。(中3目黒美貴)

学校や食事 感謝しよう

 「戦後に食べた銀シャリがとてもおいしかった」と目を輝(かがや)かせて話す久永さんの姿が印象的でした。それだけ戦時中の食生活が厳しいものだったのだと思います。爆風(ばくふう)で校舎の天井は飛び、窓ガラスも割れたため、屋外で授業を受けたそうです。私たちは恵(めぐ)まれた環境(かんきょう)で学び、周りには物があふれています。学校生活や食べ物など、一つ一つに感謝して暮らそうと思います。(高1鬼頭里歩)

(2017年11月6日朝刊掲載)
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