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社説・コラム

立花誠一郎さんを悼む 捕虜体験とハンセン病 悲劇と不条理 語り続け

 立花誠一郎さんとの出会いは、10年前になる。戦時中、オーストラリアのカウラで起きた日本兵捕虜の脱走暴動「カウラ事件」の取材がきっかけだった。

 この悲劇の慰霊祭は広島市東区の饒津(にぎつ)神社で今も営まれているが、当時、必ず金一封を添えて欠席通知を出してくる人を知った。しかも住まいが瀬戸内市長島の国立療養所邑久光明園と分かり、戦後はどんな半生を送ってきた人なのかと思って訪ねたのである。

 会ってみると、心遣いがこまやかな上に器用で多才、多趣味な人だった。20歳で徴兵されるまでは、腕を見込まれた鍛冶職人。光明園では理髪の仕事を頼まれていたほか、運転免許を取って入所者の遠出に付き合っていたと聞いた。

 さらにカウラから持ち帰ったトランクを見せてもらって驚いた。まともな道具もない中、編み上げ靴の革や収容病棟の天幕を切って縫い上げた手製だった。自分だけでなく捕虜仲間にも作ってやったという。

 カウラ事件は捕虜の汚名をそそぐための「死への決起」と言われている。戦時下に通達された「戦陣訓」の呪縛である。とはいえ戦争も終わってみれば、立花さんのような普通の兵隊は生きて祖国に帰ることへの執念を取り戻したのかもしれない。古びたトランクが無言で教えてくれた。

 しかし、カウラでハンセン病と診断された立花さんの苦難はそれで終わらなかったのだ。私は豪戦争博物館から、復員船に乗ろうとする彼の写真を入手した。そこには、赤十字のマークの車両の中で待機する姿が写っている。明らかに特別な扱いを受けていた。

 船内では石炭置き場に放り込まれるような、屈辱を味わった。浦賀(神奈川県横須賀市)に着いても、帰郷できないまま国立駿河療養所(静岡県御殿場市)に送られた。関係者は行き先を「いい所ですよ」と答えるだけだったという。

 晩年の立花さんは、カウラ事件の悲劇とハンセン病隔離政策の不条理を語り続けた。併せて、同じ戦争のるつぼに投げ込まれながらも生死を分けた戦友を、負い目とともに悼む気持ちも忘れなかった。歌に詠んでは園誌「楓(かえで)」に投稿していたことを思い出す。

 戦友は散り虜囚となりて生き延びし我が身を詫(わ)びて御霊(みたま)慰霊す

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 立花誠一郎さんは7日死去、96歳。(論説主幹・佐田尾信作)

(2017年11月14日朝刊掲載)

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