連載・特集

[Peaceあすへのバトン] 妙慶院住職 加用雅信さん

復興の寺 悩み寄り添う

 10月に私のお寺を会場に、アートを通して平和を発信する「ヒロシマ・ナガサキ ZERO PROJECT」がありました。平和について考える場として利用してもらうのは自分だけでなく、原爆からの復興に向け奔走した亡き祖父母や、被爆した父にとってもうれしいことです。開かれたお寺を目指し、人々の悩みに寄り添っていきたいと思っています。

 祖父は、いま平和大通りになった広島市の旧天神町の清岸寺の住職でした。しかし1945年春ごろ、防火帯を造る建物疎開によって寺が取り壊されて白島九軒町の寺院に身を寄せました。曽祖父と祖父母、父、産まれたばかりの叔父は、そこで被爆します。

 外にいた祖父と父は大きな木の陰に入ってけがはなく、家の中で叔父に乳をあげていた祖母は、目や腹に木材が刺さりましたが助かりました。しかし曽祖父は崩れた家のはりに足を挟まれ、迫りくる火に巻き込まれました。

 中区小町にある現在の妙慶院に移って再興するまでの暮らしは大変だったようです。祖父はお寺の勤めをしながら夜間高校の教員も務め、家を切り盛り。そんな家族の思い出を、祖母は子どもの頃の自分によく話し「孫と一緒に暮らせるようになって良かった」としみじみ語っていました。ただ、戦時中に寺を守れず「情けなかった」とも。

 一方、自分は建築士に憧れていました。父とお坊さんになる将来だけは約束し、東京の大学に進学。大学院では米国留学も。「就職氷河期」の時代に大手の設計事務所に入ったものの、残業100時間は当たり前。コンピューターに向かう時間が多く、人と接する方が好きな自分にはそぐわない気が募りました。

 両親が老いる中、29歳で寺に戻りました。最初はお寺と建築を両方やろうと考えましたが、2カ月後に通夜と葬式を1人で必死にお勤めしたのを機にお寺に専念。2年前、今回のプロジェクトを企画した米国人アーティスト、キャノン・ハーシーさんと出会い、協力を始めました。

 建築の世界にいたのでアートは好きです。講堂で若者が自分なりに平和への思いを深めて形に表す光景は、自分も面白い。他にも、小学生たちが被爆体験を聞く時の会場にもしています。原爆から復興できた恩を、次の世代に送る気持ちを込めています。

 「平和」とは争いのない状態だと考えます。そのためには失敗から学ぶことが大切です。自分も苦しかったことはありましたが、祖母の話を思い出すとまだまだ。どうしようもなくつらくなれば、最後は笑い飛ばします。いつの日か笑い話になれば、失敗も大切な経験として生きるはずです。(山本祐司、写真も)

かよう・がしん
 広島市中区出身。広島大付属中・高卒業後、東京理科大、東京工業大大学院で建築を学ぶ。2001年に広島に戻り、15年から妙慶院住職。平和アートに関わりながら、寺院の敷居の高さをなくそうと、自らカフェなどに出向き、人々の悩みを聞く「バー」を開く。

(2017年11月14日朝刊掲載)
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