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社説・コラム

緑地帯 チャップリンと核 森弘太 <5>

 チャップリン映画を論じた文献は果てしないほどにあるが、代表的な研究者2人の、「ニューヨークの王様」論を見てみたい。

 「チャップリン―偉大な、美しい沈黙」(1971年、越部暹訳)を著したドイツのフリードリヒ・ルフト。彼はこの作品について、マッカーシー旋風(赤狩り)で米国を追放されたチャップリンの「憎悪と復讐(ふくしゅう)心でしかない」と断じ、本作の中で「チャップリン自身がユーモアを失ってしまった」とみる。「モダン・タイムス」「独裁者」「殺人狂時代」などと並び、本作は伝道映画、すなわち政治映画であって、「喜劇王」の映画ではないとする。

 対極的なのが、「チャップリン―その映画とその時代」(66年、鈴木力衛・清水馨訳)を著したフランスのジョルジュ・サドゥール。「この完璧な諷刺(ふうし)映画では、笑いがすべてに、悲しみにさえ打ち勝っている」「現代のドン・キホーテは、自分の戦いのために、笑う人たちを味方につけることができたのである」がその評だ。

 サドゥールも、本作がマッカーシズムへの怨念の映画とする点は共通している。しかし、ルフトが本作に喜劇性を認めないのに対し、サドウールは認める。両者の岐路はそのまま、映画ジャーナリズムのチャップリン評価の岐路でもある。

 ここで私を襲う謎がある。それは、本作でチャップリンが表明した核エネルギーへの拒否について、2人とも全く触れていないことである。後の映画ジャーナリズムもほぼ無視しているとしか思えないのは、なぜなのか。(映画監督=尾道市)

(2017年11月15日朝刊掲載)

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