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連載・特集

3000通に浮かぶ 核への憤り 第五福竜丸・久保山さんと遺族への手紙

分析進む 東京の展示館で保存 回復願う子どもたち

 1954年3月1日、ビキニ環礁で米国が行った水爆実験で「死の灰」を浴びた第五福竜丸。被曝(ひばく)して半年後に死亡した無線長の久保山愛吉さんと家族に各地から届いた見舞い、激励、お悔やみなどの手紙約3千通が、東京都江東区の都立第五福竜丸展示館に保存されている。被爆地を含む中国地方の78通もある。学芸員の市田真理さん(50)を中心に整理と調査が進み、広島と長崎に続く核被害への当時の日本人の憤りと悲しみが浮かび上がってきた。(岩崎誠)

 76年に久保山さんの妻、すずさんから一括寄贈を受けた。これまでも資料集や展示に繰り返し使われてきたが、本格的な分析は道半ばという。「書いた人の気持ちを知りたい」と市田さんは15年前からボランティアの力も借り、作業を続けてきた。1通ずつファイルに入れて分類・保護。都道府県や世代・所属、手紙の内容、形態をデータベースに入力し、中身を読み込んできた。約2500通について整理を終えた。

 入院先の東京の病院や地元の静岡県焼津市に送られてきた手紙は、久保山さんの容体が国民的な関心事だったことを裏付ける。54年9月23日に息を引き取るまでの病状は、ラジオや新聞で連日、報じられた。

 北海道の開拓民、大陸からの引き揚げ船の乗船者、巣鴨プリズンのB・C級戦犯一同、米統治下の沖縄の人たち…。多様な差出人の中でとりわけ目立つのは、全国の子どもたちの声だ。

 「久保山のおじさん」と親しく呼び掛け、「死なないで」「がんばって」とつづる。死が伝えられると、家族に「元気を出して」などと励ます…。なけなしの小遣いや押し花を入れた封書もあった。「子どもたちが一緒に怒り、自分のことのように悲しんでいるのはすごいこと」と市田さんはしみじみ言う。

 朝鮮戦争特需が消えて景気が低迷し、災害も多発。さらに自衛隊が発足して事実上の「再軍備」が進む時期に当たる。手紙を読み解くには時代背景の理解が欠かせないという。

 象徴的なのが匿名の「鳥取県の一少女」が長女のみや子さんに宛てたものだ。自分も戦争で父を亡くしたと明かし、戦争を憎むと語り掛けた上で、「にくしみを投げつけずに平和への道の発見に努力するのが正しいのです」。終戦からまだ9年。子どもたちも含め、日本人が心の底から平和を願っていたことを示す。

被爆体験寄せる

 広島・長崎の被爆者が置かれた状況も深く関係してくる。例えば、長崎で被爆した日本被団協の田中熙巳代表委員(85)。当時の職場の同僚との寄せ書きが調査で見つかった。本人が周りにほとんど語っていなかった被爆者である事実を明かし、久保山さんの遺族に励ましの言葉を送っていたのだ。

 ビキニ被災をきっかけに原水爆禁止署名が広がり、翌年に初の原水禁世界大会が広島で開かれる。遅れていた被爆者援護策の法制化も前に進んだ。その意味で一連の手紙はビキニと原爆の被害者の思いをつなぐものという見方もできる。

 広島県からの手紙も27通確認された。久保山さん存命中に届いた封書は「原爆の生き残り」と名乗り、看護の道に進むという若い女性がしたためた。体験を踏まえて水爆実験の衝撃を語り、回復を深く祈った。

 「原爆被害者の会」のメンバーの男性は遺族へのお悔やみとともに、この年にも広島で原爆症の人が次々と亡くなっていることを挙げ、「なくなった人々の命を無駄なものにさせないために共に努力しましょう」と呼び掛けていた。

 一方、久保山家には政府の「補償措置」があったことに対し、「(原爆症への)何の補償すらなく不安におののきつつ死んでいかなければならない方達が居ります」と、割り切れない思いをつづった広島の女性もいた。

 市田さんは「地元の焼津も含め、『補償』を巡る遺族への心ない声があったことが他の手紙からも読み取れる。その事実も伝えなければ」と考える。遺族からは「久保山愛吉だけを特別視しないで」という声も聞いている。他の乗組員たちの思いをもっと知り、一冊の本にまとめたいという。

次世代の「教材」

 市田さんは近現代史を学ぶ大学院生の時、広島で核の脅威に初めて触れた。核被害の資料を集める「平和博物館を創(つく)る会」に加わり、その過程で福竜丸展示館の学芸員となった。ビキニ被災を次世代が継承する「語りつぎ部(べ)」を名乗る。

 講演や非常勤講師を務める大学の教壇で若い世代と接する。整理を終えた手紙は「教材」としても活用している。その場で朗読してもらい、63年前の時代の空気や核戦争への危機感に筆を執った人たちの胸中に迫る新たな試みだ。「広島から届いた手紙を使い、被爆地でもやってみたい」と市田さんは望む。核兵器禁止条約が制定され、国内外の世論のさらなる高まりが求められる中で、核廃絶への当時の「熱気」を思い起こす意味を感じている。

 ■第五福竜丸と久保山愛吉さん
 大戦後、米国が核実験を繰り返した太平洋マーシャル諸島。そのビキニ環礁で1954年3月1日に強行した水爆実験は23人が乗っていた焼津市のマグロ漁船、第五福竜丸を巻き込む。

 症状の重い船員は東京で治療を受けたが、久保山さんの病状は8月20日ごろ急変、30日に重体に。いったん持ち直すが家族が見守る中で9月23日に死亡した。40歳だった。退院できた他の乗組員も多くが肝機能障害などに苦しんだ。

 政治決着のために米国は200万ドルを拠出。久保山さんの遺族には慰謝料や弔慰金などが支払われた。

 展示館で公開される福竜丸の船体は、ことし建造70年を迎えた。元乗組員の大石又七さん(83)は同館の学芸員と手を携え、継承のための証言活動を続ける。

(2017年11月20日朝刊掲載)

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