連載・特集

銭村家の軌跡 野球と生きた日系米国人 <5> 家族の絆

3兄弟再会 広島で同居

 移民の家庭に生まれ、さらに日米の戦争に巻き込まれた銭村家の3兄弟。離れ離れになっていた長兄と弟たちは、思いがけない形で再会を果たすことになる。

 終戦後、米カリフォルニア州フレズノに戻った次男健三(90)=フレズノ=と三男健四は相次ぎ、兵役に就いた。健三は米国内の陸軍基地に勤務し前線には送られなかったが、健四は1950年、朝鮮戦争に駆り出された。

 韓国の任地に赴いた後、現地で黄疸(おうだん)の症状が現れ、治療のため日本へ送られることに。入院していた関西の病院に駆け付けたのは、東洋工業(現マツダ)に勤めていた長男健次だった。幼い頃に別れて以来、約20年ぶりの再会。健次は日本語、健四は英語しか話せず、通訳を介して言葉を交わしたという。

 兄弟の次の転機は53年に訪れた。父健一郎の仲介で、健三と健四の広島カープ(現広島東洋カープ)入団が決定。3兄弟が初めて同じ屋根の下に暮らすことになったのだ。

 「段原(現広島市南区)の健次の家で2階に寝泊まりしていた。楽しかったなあ」。健三は当時を懐かしむ。「兄はとにかく優しくて。広島にいた間、身の回りの事から何から世話してくれた」。市外の遠征から帰る日は、いつも寝ずに待っていてくれたという。

 健三が2カ月後に広島を離れた後も、健四は球団を引退する56年まで同居を続けた。55年には一時期、日系2世の妻ローズ(84)=フレズノ=も来日し、夫婦で健次の家に身を寄せた。

 「父は、弟たちと過ごせるのがうれしくて仕方なかったのだと思う」と言うのは、健次の長男勝二(68)=東京都世田谷区=だ。健次が残したアルバムには、米国にいる幼い弟2人の写真が張られ、「可愛(かわ)いゝなあ 何故帰って来ないの?」と添え書きがしてあった。勝二は「会えずにいた時間を取り戻すような感覚だったのでは」と、父の心境を思いやる。

 絆を結び直したのは兄弟だけではない。健四のカープ在籍中、母キヨコも1度、広島を訪れた。幼い頃に手放したわが子との久しぶりの再会。後に、当時の心境を家族にこう明かしたという。「初めは会いに行くのが怖かった。でも母子の絆は確かにそこにあった」

 健次はその後、母と密に連絡を取り続ける。定年退職後は渡米も重ねた。フレズノ滞在中は毎晩、小さなベッドに枕を並べて、老いた母と一緒に寝ていたという。ただ、健一郎は68年に交通事故で他界。戦後、父子が再会することはなかった。(敬称略)

(2017年11月20日朝刊掲載)
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