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社説・コラム

『論』 維新150年 明治礼賛に対峙するものは

■論説主幹 佐田尾信作

 「おまえ、生まれた時おしっこかけたじゃん」という人が生きているうちは、なかなか歴史意識というものは出てこない―。

 尾道市生まれの作家高橋源一郎が「明治維新150年を考える」(集英社新書)の中で、歴史の本質を考えるための面白い例えを披露している。つまり、ある人がどんなに立派になっても、生まれ育った土地では「昔おしめを替えてやったやつが」となる。逆に言うなら、その語り伝えが消えた時、人は偉人になるのだろう。

 では1868(明治元)年に幕を開け、来年はそれから150年を迎える明治維新は、いつごろ歴史になったのか。「75年」を歴史の節目と捉える高橋は、1943(昭和18)年ごろとみる。

 民俗学者宮本常一に「御一新のあとさき」という聞き書きがあり、35(昭和10)年に周防大島の薬剤師矢田部宗吉を訪ねたと記す。宗吉は10代で吉田松陰の門をたたき、周防の第二奇兵隊(南奇兵隊)による倉敷代官所襲撃に参加した。斬罪になるところを命拾いし、幕長戦争では芸州口の戦い、さらに鳥羽伏見の戦いに臨んだが、その後は軍人や役人の道を選ばず生きてきたという。

 昭和10年といえば、明治元年から67年たっている。維新を境に村の生活はどう変わったか、維新以前の人たちは国家をどう捉えていたか―。そう思って宗吉をはじめ古老の話を聞き始めた宮本だったが、やがて時間切れになったと悔いている。聞き書きの名手たる宮本でさえ、70年に近づく歳月はいかんともし難い壁だった。

 ほぼ同じ歳月が維新の原動力を換骨奪胎してしまったと問題提起するのは、文芸評論家の加藤典洋(のりひろ)である。新著「もうすぐやってくる尊皇攘夷(じょうい)思想のために」(幻戯書房)の中で述べている。

 加藤によると、維新を招来した尊皇攘夷という倒幕思想はことが成ると尊皇開国の思想にすり替わり、欧化にとって「ヤバい」攘夷は封印されてしまったという。それに対し岩倉具視や西郷隆盛は、攘夷を掲げて戦った者たちの死は何のためだったかと嘆く。

 ところが消化しないまま封印したものは、ある日突然噴き出す。それが戦前昭和の皇国思想だという。国際協調を重んじた大正デモクラシーの空気が一変し、31(昭和6)年の満州事変から41(昭和16)年の日米開戦まで、わずか10年で日本は追い込まれた。

 尊皇攘夷思想は列強に脅かされる時代の普通の人々の抵抗に根差していたが、皇国思想はそれとは似て非なるものだ。自ら招いた国際的な孤立を逆手に取り、国家が国民を扇動した疑似革命思想にほかならない。加藤はそう説いて、尊皇攘夷思想の再評価は「戦後のリベラルな思想」にとっても無益ではない、と結論付ける。

 明治150年は、明治100年と同じように政府によって明治礼賛の色合いの濃い行事が展開されるに違いない。そこでは、維新の光と影を検証し、戦前昭和の暗黒を省みるほどの歴史の検証は行われるのだろうか。あるいは、維新の揺籃(ようらん)期である江戸時代をどのように評価するのだろうか。

 明治100年の政府主催記念式典は野党の欠席と歴史研究団体の抗議の中で営まれた。「戦後のリベラルな思想」が対立軸だった。だが、その思想が当時ほどの求心力を持たない今、「お上の150年」にどう対峙(たいじ)するのか、思いを巡らせなければなるまい。

 手掛かりはある。明治の世にも国家が強いる「近代化」に抗した人物は少なくない。博物学者の南方熊楠(みなかたくまぐす)もその一人だろう。

 紀州の人、熊楠は政府主導の神社合祀(ごうし)つまり神社のリストラに公然とかみついた。合祀は民の「和融」を妨げ、地方を衰微させ、自然を損なうと論陣を張る。多種多様な信仰のかたちを守ることにより、今でいえば地方分権の芽を摘ませなかった。2004(平成16)年に熊野古道は世界遺産に登録されたが、熊楠は恩人ともいえよう。

 くしくも熊楠はことしが生誕150年。明治150年の実像を映す「鏡」になるのかもしれない。そんな鏡をほかにも見つけていくことが必要だろう。(敬称略)

(2017年12月7日朝刊掲載)

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