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遺品 無言の証人

平和公園 暮らしがあった

6人家族の食卓 母子3人が戻らず
【高熱を受けた菓子皿】
 中島本町の焼け跡で掘り出された菓子皿はかつて食卓に並べられていたか。高熱でうわぐすりが溶けた跡がある。家族6人のうち妻と娘の1人は遺骨も見つからず、建物疎開に出た中学生の息子も戻らなかった。同じ場所で見つかった瓶やたらいなどと一緒に原爆資料館に託された=1973年、玖島円助さん寄贈。






防空壕の中で無事 理容店店主の形見
【えびす様の一輪挿し】
 日々の花を飾る一輪挿しは商売繁盛のえびす様か。元柳町にあった理容店裏の防空壕で奇跡的に無傷で残っていたが、店主の行方は分からないまま。別の場所で店を再開した妻が夫の形見としてずっと店に飾った=1999年、西口キヌヨさん寄贈。




注ぎ口辛うじて形 遺族が大切に保管
【壊れたやかん】
 爆心地から300㍍、中島本町の貿易商の自宅や会社の跡で集められた。ばらばらに壊れたやかんは辛うじて注ぎ口に形を留める。元銀行でれんが造りだった会社の建物は一部を残し崩壊したという。経営者一家で亡くなったのは3人。遺族が大切に保管していた=2013年、藤井澄江さん寄贈

陶器片やくぎ付着 周辺の温度物語る
【銚子と溶けたガラス】
 爆心地から250㍍、中島本町の旅館の焼け跡で被爆の約1週間後に収集された。厨房にあったらしい銚子に溶けたガラスや陶器の破片、くぎなどが混ざって付着し、爆心地の温度がいかに高かったかを物語る=1990年、津島初美さん寄贈

 ※原爆資料館収蔵庫で荒木肇が撮影しました。由来は資料館の平和データベースに基づき、地名は被爆当時のものです。

≪無言の証人・爆心直下の生活≫

中島地区 消えた街の記憶知って

 広島市中区の平和記念公園は元旦から国際色があふれていた。欧米系の観光客に交じって中国語の会話が聞かれ、イスラム圏から来たらしい女性の姿も。初詣のように原爆慰霊碑に手を合わせる人の列もできた。原爆資料館などが1月1日からの開館に踏み切って以来、こうした光景が定着しつつある。

 被爆地ヒロシマを訪れる観光客、とりわけ外国人は増加の一途をたどる。しかし資料館で核被害の悲惨さに触れ、国の名勝にもなった美しい公園を歩いても、足元で失われた繁華街、中島地区の姿を実感できる人がどれほどいるだろう。

 1945年8月6日、1発の原爆が、約4400人が暮らしていたといわれる街を焼き尽くした。資料館には、失われた爆心地の記憶を断片的に伝える資料が数多く寄せられてきた。被爆直後の焼け跡で犠牲者の遺族が集めた、爆風と熱線の爪痕を残すもの。あるいは公園として整備される過程で掘り出されたものもある。

 大半は収蔵庫にあり、展示で活用される機会がほとんどなかった資料は少なくない。しかし一つ一つの由来を聞くと惨禍と再生の物語が目に浮かんでくる。

 こうした被爆資料は今なお地下に埋もれている。2015年から広島市が資料館の耐震工事に合わせて実施した発掘調査では膨大な遺物が見つかった。

 材木町と呼ばれた一帯。牛乳配達店があったらしい場所から変形するなどした多くの瓶が発掘された。焦げた三角定規や、炭化したしゃもじなど、被爆前の家庭を思わせる日用品も続々と―。一部は昨年から資料館で展示され、いずれ収蔵品に加わる見通しだ。

 昨年11月、公園の地下に眠る被爆遺構の保存を考える集会で、中島地区で幼少期を過ごした男性が発言した。「古里」である公園を訪れる人たちに声を掛けたくなるという。「静かにお歩きください。たくさんの人が眠っていますから」。ただ爆心地ゆかりの人たちでさえも今では孫、ひ孫の世代に移り、街の記憶を正確に伝えることは徐々に難しくなっている。

 だからこそ平和発信の拠点である公園の失われた歴史に、もっと思いをはせる必要があるはずだ。ことしから資料館の知られざる収蔵品に光を当てる「無言の証人」のシリーズを、まず中島地区の資料4点から始めたい。(桑島美帆)

【中島地区の歴史】

民家や商店 繁華街

 中島地区の歴史は広島に城下町ができた16世紀末にさかのぼると考えられる。現在の元安川と本川に挟まれたデルタ地帯で、特に幕末から昭和初期にかけて繁華街として栄えた。

 現在の平和記念公園とその南側に中島本町、材木町、天神町、元柳町、木挽町などがあり、民家や商店、寺院や旅館、医院などが軒を連ねていた。

 さく裂した原爆のほぼ直下にあり、壊滅した。戦後、バラックなどが立ち並んだが、1949年8月6日に施行された「広島平和記念都市建設法」に基づき、原爆ドーム周辺を含む12・21㌶を平和記念公園として整備することが決まった。

 52年に原爆慰霊碑が完成し、55年には原爆資料館がオープンした。96年の原爆ドームの世界文化遺産登録とともに守るべきバファーゾーン(緩衝地帯)に含まれ、2007年に公園として国名勝に指定された。

(2018年1月8日朝刊掲載)

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