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連載・特集

核被害発信 原点に 被爆地の決意新た 

 核兵器禁止条約が制定された歴史的な年が過ぎた。核廃絶に向けた国内外の機運をどう高めるか。設立10周年を迎えた中国新聞ヒロシマ平和メディアセンターは核被害をより広く伝えるため、ことしから広島平和記念資料館(原爆資料館)と連携し、できるだけ多くの収蔵資料に光を当てていく。その資料館は本館リニューアルを控える。新年に当たり継承と発信に関わる3人の座談会も開き、被爆地の役割をあらためて考えた。

座談会

被爆体験証言者 細川浩史さん

広島市立大広島平和研究所教授 直野章子さん

原爆資料館長 志賀賢治さん

≪司会≫岩崎誠・中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター長

継承へ「実物」生かす 志賀さん

遺品の力 歴史観超え 直野さん

妹の制服 寄贈したい 細川さん

  ―昨年は核兵器禁止条約制定に続き、「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN(アイキャン))へのノーベル平和賞で被爆地は沸きました。
 細川 遅過ぎた感もあるが、いいことだ。広島市長もノルウェーの授賞式に参加し、ヒロシマを知ってもらう機会になった。

 直野 被爆者の積み上げてきた活動があってこそ。自分たちと同じ思いを二度としてほしくないという気持ちが、世界の人々を動かしたと思う。

  ―今回、ノルウェーには原爆資料館から遺品が貸し出され、反響を呼んだようです。資料館の役割はさらに大きくなります。
 志賀 最近は内戦や第2次世界大戦で大変な経験をした国々も原爆展を開きたいと言ってくれる。被爆地への関心を示してくれている実感を得ている。

  ―その中で進む本館のリニューアルの内容は。
 志賀 被爆者の皆さんに見ていただく、最後の常設展示になるかもしれない。これまで原爆を知る当事者に支えられてきた。しかし被爆者がいなくなる時代を迎えることを考えていかなければならない。核兵器廃絶を伝えることだけが目的ではない。犠牲者の言葉、遺品を借りて、記憶を語り継ぐ場にしたい。実物資料をできるだけ見てもらい、五感で接してもらえる空間を考えている。

 直野 資料館に収蔵されているものは歴史資料とは違う。死者や戦後持ち続けた遺族の思いが入っているからだ。今から100年、200年後、ヒロシマは「歴史」に近づくかもしれない。それでも、見る人が込められた思いを引き継げるようになれば。

  ―もちろん今も被爆者は証言活動を続けています。実物資料と生の言葉をどう組み合わせれば…。
 細川 私の妹の森脇瑤子は建物疎開に出て被爆し、亡くなった。第一県女の入学から被爆前日までの日記を残し、手元に今もある。実は原爆投下の日、妹が身に着けていた制服と防空頭巾もある。名札が縫い付けられ、それを頼りに戻ってきて戦後、父が持ち続けた。受け継いだ私も洗濯せず、当時のまま残した。しかし私も残された時間が少ない。捨てられることがあってはならないと、制服などは資料館への寄贈を決意した。

 志賀 大変な責任を感じる。公立の博物館がこれほど個人の「遺品」を預かるケースは少ない。一人一人の命の重みを伝えていきたいが、亡くなった人や遺族の体験を聞けるのは今しかない。かつて父母が子の遺品を持っていたが、今はきょうだいか子や孫の世代であり、体験は前ほど聞き出せなくなっている。今のうちに多くの資料を私たちに預けていただき、劣化対策も万全にして残したい。

  ―確かにどんな時代、どんな状況でも犠牲者の遺品には、大きな力があります。
 直野 1995年に米国のアメリカン大で原爆展のお手伝いをした。多くの人が遺品を熱心に見てくれた。「原爆が自分たちの命を救った」という考え方もある中で、歴史観を超え、人間として遺品を通して相手を見つめてくれた。平和は説くものではない。大切なのは対話であり、聞くこと。相手国の苦しみに耳を傾ける態度を持てば、共感を呼ぶ。ただ被爆者がいなくなる時代にどうすればいいか、確かに考えないといけない。

  ―語り継ぐためには、資料館にある「原爆の絵」も意味があります。
 志賀 昨年はフランスの国立公文書館の展示のために約200点近くのデータを送った。一枚一枚、原寸大で再現したと聞く。

 直野 研究者として原爆の絵について描いた人から聞き取りをした。その証言にも含まれるように、全く知らない人が死んだ様子も描いている。一人一人の姿を何とか表現し、確かに生きたことを伝える「紙碑」のようなもの。描いた紙に合掌という言葉を添えたものもある。事実を記録するというより、死者への思いが募る意味では遺品に近いのでは。

  ―直接の原爆被害だけでなく、生き残った人が戦後どんな思いだったかも伝えていきたいですね。
 細川 戦後、自分の被爆体験や妹のことを、周りに話してこなかった。忌まわしい記憶を消し去りたいために。続けてきた資料館のピースボランティアでも他人の遺品の説明は避けてきたところもあった。しかし、被爆者は実体験を普遍化して次世代に伝承する責務がある。そのために少しだけ、アディショナル・タイムをもらっていると思うようになった。これからも実体験を通じて、核廃絶への叫びを自分の言葉で語り掛けていきたい。出会う人との一期一会を大切にしたい。

 直野 原爆のひどさは被害や非人道性だけではない。資料館でも生き延びた被爆者が戦後に耐えた苦しみ、生きざまも見せてほしい。訪れた人が心を動かされ、核時代を生きる当事者として行動を起こす場所であってほしい。

ほそかわ・こうじ
 28年広島市生まれ。爆心地から1.3キロで被爆。学徒動員中に死亡した妹の日記は「広島第一県女一年六組 森脇瑤子の日記」として出版され、教科書にも載る。00年ピースボランティア、05年被爆体験証言者。

なおの・あきこ
 72年生まれ、兵庫県西宮市出身。米アメリカン大卒。95年の同大原爆展開催に尽力。02年にカリフォルニア大サンタクルーズ校で社会博士号。「原爆の絵」の研究でも知られる。九州大大学院准教授を経て16年現職。

しが・けんじ
 52年広島市生まれ。78年名古屋大法学部卒、広島市入り。広島市立大事務局長、健康福祉局長、人事委員会事務局長などを経て13年に市を退職し、被爆2世としては初の広島平和記念資料館長に就任。

[無言の証人] 知られざる資料に光

復興の旗「この世界」にも/活版印刷の鉛 溶けて異形

 一大ブームを巻き起こしたアニメ映画「この世界の片隅に」。広島・呉を舞台に、戦争の時代を生き抜く「すず」と家族を描き、DVD・ブルーレイ化の後も人気が続く。こうの史代さんの漫画を原作に、片渕須直監督が全力を注いだ名作のエンディング近くに、熱心なファンが口コミで話題にするシーンがある。

 原爆で壊滅した広島の街で、すずが夫の周作と再会する。廃墟に立つ旗に「復興」の2文字が…。実は原爆資料館の収蔵資料がモデルになった。当時の暮らしや風景を再現する考証作業で緻密を極めた監督が取り入れたと聞く。

 収蔵庫にある実物の旗を見た。縦73センチ、横43センチの布の2文字が力強い。資料館によれば爆心地から900メートル、現在の広島市中区榎町で被爆した小原友次郎さん(当時61歳)が焼け跡の炭で、残ったシャツの布地にしたためたという。原爆投下翌日、自宅跡に旗は立つ。

 小原さんは被爆後1週間ほどで寝込むようになり、9月1日に亡くなる。1976年に寄贈された旗の色あせない文字から、街の再生を願いつつ世を去った一市民の思いが伝わる。

 原爆の記憶を伝える、知られざる「無言の語り部」。2016年に資料館に寄贈された鉛の塊もその一つだ。高さ30センチ余り、一升瓶の形をしている。

 爆心地から520メートル、現在の中区堺町にあった中本印刷所。活版印刷の鉛の活字が熱線か猛火で溶け、そばにあった瓶に入り込んで固まったとみられる。

 被爆の翌月ごろに広島に復員した中本勝人さん(当時20歳)が、父が経営していた同社の焼け跡で見つけた。家族や社員の遺骨はばらばらで拾えないまま。「死んだ兄や姉、社員たちの魂が固まったものだ」と亡くなるまで大切に守り、由来を語り継いできたという。

 新着資料展で公開されたが学芸員が手に持つと、よろけそうになるほど重い。腹の部分には室内で砕けたものを巻き込んだらしい、ガラス破片も光る。「異形の被爆資料」は核兵器の猛威を静かに告発する。

 原爆資料館を訪れても収蔵資料の実物の大半を見ることはできない。ヒロシマ平和メディアセンターは「無言の証人」と題し、毎週の「平和のページ」と専用ウェブサイトを中心に、あまり知られていない資料を紹介していきたい。英訳し、海外に向けても発信する。北朝鮮が核・ミサイル開発を強行し、核廃絶への課題が山積する世界で、ヒロシマの原点を国境を超えた多くの人たちに共有してもらうために。

2万点 活用・保存問われる

 原爆資料館が集めてきた2万点を超す実物資料。東館地下の収蔵庫は年間を通じて気温20度、湿度50%で一つずつ紙に包み、種類によって保存環境を変える。遺品を中心にした衣服類はきりだんすに入れる。

 寄贈数は年間に数百点のことが多く、個別の由来を職員が丹念に聞き取るが、遺族らの高齢化に伴って情報収集は次第に難しくなっている。何より増えていく収蔵庫の資料をどう生かしていくかが問われている。

 もう一つの重い課題が、歳月の経過に伴う金属のさび、紙の色あせなどの劣化対策だ。資料の一部は複製を作成したが、2015年には午前8時15分で止まった懐中時計の短針が折れていたことが判明した。ポーランドの国立アウシュビッツ・ビルケナウ博物館との保存修復技術の連携も検討されている。

 この特集は岩崎誠、金崎由美、桑島美帆、山本祐司が担当しました。

 紙面編集・杉原和磨

(2018年1月3日朝刊掲載)

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