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連載・特集

イワクニ 地域と米軍基地 各地からの報告 <3> 厚木㊦

墜落で被害 癒えぬ傷

 「お兄ちゃん助けて」。妹のか細い声が、土志田(どしだ)隆さん(69)=横浜市青葉区=の耳から離れない。41年前、横浜市で起きた米軍機墜落事故。当時26歳の妹和枝さんとその幼子2人が巻き込まれ、亡くなった。

 記者は米軍厚木基地(神奈川県)から北東に10キロほど離れた土志田さん宅を訪ねた。時折、米軍機のごう音が降り注ぐ。「あの音を聞くと胸がうずくんです」

 1977年9月27日。厚木基地を飛び立ったファントム偵察機が約13キロ離れた同市緑区(現青葉区)の住宅地に墜落、住宅2棟が全焼した。

操縦士は不起訴

 「妹さんの家が燃えている」。知人から電話で知らされた土志田さんは、生花店を営んでいた自宅を飛び出し、車で向かった。妹の自宅まで約3キロ。渋滞につかまり、ようやくたどり着いた時、和枝さん宅は既に焼け落ちていた。和枝さんと、3歳と1歳の息子2人は病院に搬送されていた。

 和枝さんは全身にやけどを負った。一命は取り留めたものの、50回以上の皮膚移植を繰り返した。「子どもたちに会えるように頑張れ」。土志田さんは、つらい闘病生活を送る妹を励まし続けた。

 しかし、子ども2人は事故の翌日に亡くなっていた。「本当のことは言えなかった。妹が壊れてしまうと思った」と土志田さん。子どもに会いたいとせがまれると必死にうそをついた。2人の死に触れた記事の載った新聞は手渡さなかった。

 本当のことを告げたのは1年4カ月後。和枝さんはそれから3年後、31歳で息を引き取った。死因は「心因性の呼吸困難」だった。

 墜落直前に脱出し、無事だったパイロットは不起訴処分になった。在日米軍の法的地位を定める日米地位協定が「盾」になった。和枝さんに、パイロットや米軍から謝罪や説明の言葉はなかったという。

 岩国市の米軍岩国基地周辺でも米軍機や自衛隊機の事故は繰り返されてきた。市によると、戦後、山口県をはじめ、広島、愛媛3県での落下物などを含めた事故は100件(うち自衛隊関係は31件)、うち墜落事故は33件(同3件)あった。

 海兵隊のAV8Bハリアー攻撃機が97年10月、岩国基地の東約200メートル沖の海上で墜落して以降、周辺での墜落事故は起きていない。しかし、厚木基地から空母艦載機が移り、岩国基地所属機は約120機へと倍増する。事故の発生リスクは確実に増す。

「41年前と同じ」

 なぜ妹たちが犠牲になったのか。なぜ自国の政府は米軍の責任を追及してくれなかったか。土志田さんは今も自問する。そして、各地で米軍関係の事件事故が起きるたびに思い知らされる。「41年前と状況は何も変わっていない」と。

 「在日米軍は、もの申すことのない日本政府の姿勢を見透かし、地域の安全対策を本気で考えていないのではないか。米軍基地がある以上、妹たちと同じような悲劇は起こり得る。それを忘れないでほしい」。土志田さんは、妹の遺影を見ながら静かに語った。(久保田剛)

横浜米軍機墜落事故
 1977年9月27日午後1時17分、米軍厚木基地(神奈川県)から空母に向かうファントム偵察機がエンジン火災を起こし、横浜市緑区(現在の青葉区)の住宅街の道路付近に墜落。飛散したジェット燃料が引火して付近の住宅を焼いた。国などによると、土志田和枝さんの長男裕一郎ちゃん=当時(3)=と次男康弘ちゃん=同(1)=の2人が翌日に死亡、6人が重軽傷を負った。重傷の和枝さんも闘病の末、82年1月に31歳で亡くなった。パイロット2人はパラシュートで脱出して無事だった。

(2018年1月5日朝刊掲載)

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