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被爆当時の中国新聞社員 中野久子さん死去

90歳 「原爆と中国新聞」でも証言

 原爆投下当時の中国新聞社員、中野久子さんが2017年11月19日、広島市安佐南区の自宅で亡くなった。90歳だった。毎年8月6日、新聞社と通信社の犠牲者を追悼する「不戦の碑」(原爆犠牲新聞労働者の碑)碑前祭=中国新聞労働組合主催=に欠かさず参列。昨年夏も元気な姿を見せ、全国から集まった新聞社や通信社の労働組合員たちに体験を語ったばかりだった。

 中野(旧姓角井)さんは1927年生まれ。三篠国民学校(現三篠小=西区)高等科卒業後の42年、14歳で中国新聞社に入社した。本社は当時、現在の広島三越(中区)の場所にあった。

 工務局活版部で鉛活字を拾う「文選」の職場に所属していた45年8月6日、出社するため爆心から2・5㌔離れた楠木町(西区)の自宅を出ようとした時に被爆。焼け野原を歩き回って家族たちを捜した。制作・印刷職場で定年後の嘱託も含め50年6カ月勤め、92年に退職した。

 2012年に中国新聞社が制作したドキュメント「1945 原爆と中国新聞」で被爆体験や当時の社内の様子、終戦直後の温品疎開工場(東区)での自力発行再開の経験を語るなど、数多くの証言を残した。

 「~さんとよく福屋の食堂で雑炊を食べました」「~さんはべっぴんさんでしたよ」。同僚たちとの思い出に話が及ぶと、口調が弾んだ。毎年8月6日の碑前祭については「同じ職場の人もたくさん亡くなった。私は生かしてもらった。生きている限りは行かないと」と、かつての同僚たちへの思いをにじませた。

 昨年の碑前祭では中国新聞労組OB・OGを代表して中国新聞の114人をはじめ7社133人の犠牲者名が刻まれた碑に献花した。碑前祭後の昼食交流会では「私は人前で話すのが苦手ですけえ」と、原稿用紙に手書きした被爆体験を労組の組合員や遺族たちの前で読み上げた。死没者の写真を持参した遺族に「よく覚えていますよ」と応じる場面もあり、被爆から72年が過ぎても記憶は鮮明なままだった。(小畑浩)

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 「1945 原爆と中国新聞」の映像は、このウェブサイトで公開しています。

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