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社説・コラム

<評伝> 吉田治平さん 復興支えた労働闘士 日雇い被爆者に寄り添う

 被爆地広島の伝説的な闘士、吉田治平さんが逝った。復興の草創期から労働運動に身を呈し、日雇いの被爆者らと歩む労組をつくり半世紀を超えて担った。広島市議も4期務めた。「戦争は二度としちゃあいけん。世の中がおかしいと思ったら、ありったけの声を上げるべきですよ」と言い続けた。95歳だった。

 南区の市営皆見平和住宅で1月31日、虚血性心疾患のため亡くなった。喪主は東京に住む次男宣治さん(56)が務めた。

 理不尽さに立ち向かった半生は自らの戦争・原爆体験に根差す。広島一中(現国泰寺高)から中央大に進み、1943年の学徒出陣で陸軍電信第二連隊に配属された。45年8月6日の広島壊滅は福岡で聞く。軍命で神奈川へ向かう途次の15日、現中区上幟町にあった実家跡を掘り返す。そのさまをこう書き残している。

 「悲しみとともに、怒りがこみあげてきます。『アッタ』人間の骨です」。母と双子10歳の妹を納めた。16歳の妹も息を引き取る。残された弟妹の4人を養うため翌9月、戦前に亡き父が勤めていた中国新聞に入社し、全焼した本社への復帰と発行再開に努めた。

 民主主義にペンを振るう記者活動とともに県労働組合協議会(46年結成)の事務局長に就く。大量人員整理を巡って占領軍の中国地方軍政部が介入した49年の「日鋼争議」も支援した。だが、出向した夕刊ひろしまで指名解雇される。県地方労働委員会は復職を命じたが履行はされず。緊急失業対策法で広島でも始まった日雇い労働に転じた。

 平和記念公園の建設や小・中学校の再建…。復興現場は貧苦の戦争被害者らが汗を流した。しかし、腕力を利かす者が差配し、日給240円足らずをピンハネする無法地帯でもあった。

 「見るに見かねた」吉田さんは50年に広島自由労組を結成。51年の広島国体を成功させた失対労働では「餅代」を求める約千人を率いて市庁舎で座り込み、拘置された。「吉田を返せ!」。どん底にあっても助け合おうとする仲間のためにも運動家を続けた。

 全日本自由労組(東京)の書記長を経て55年、広島市議に無所属で初当選。役所を牛耳るボス議員とも闘ったが高度成長期の71年に次点となり退いた。それでも、失対労働者100人の証言「わしらの被爆体験」を77年に編んだ。

 老いた組合員らが公園の清掃に当たる、全日本建設交通一般労組広島支部の委員長を2013年まで無給で担った。皆実平和住宅の自治会長も38年間務め、老々介護にあった妻久子さんを昨年に失ってからは1人暮らし。信念を持った生き方を最期まで貫いた。(特別編集委員・西本雅実)

(2018年2月9日朝刊掲載)

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