被爆証言

『記憶を受け継ぐ』 栗原明子さん―南方特別留学生と野宿

栗原明子(くりはら・めいこ)さん(91)=広島市安佐北区

市民助けようとした若者たち 忘れないで

 広島市安佐北区のケアハウスに、栗原(旧姓高橋)明子さん(91)は暮らしています。広島に原爆が投下された当時は19歳。広島女学院専門学校(現広島女学院大)の2年でした。

 1945年8月6日は東洋工業(現マツダ)へ学徒動員中でした。爆風で吹き飛ぶガラス片でけがをし、逃(に)げてきた被爆者の救護に当たりました。しかし亡くなるのを見守るしかなかったと言います。

 火の手に阻(はば)まれ、広島市大手町(現中区)の自宅跡(あと)へ戻(もど)れたのは翌7日。母兼子さんと妹尚子さんは久地村(現安佐北区)へ疎開していたので、県立広島病院の眼科医だった父の謙さんの安否だけが気掛(が)かりでした。無数の死体やけが人にも心を動ぜず、必死に歩いて帰りました。

 父の姿はなく防火水槽(すいそう)に燃えかすで「明子ゲンキ」と書き残し、広島赤十字病院へ捜(さが)しに行きます。途中、道に転がる黒い塊を見て足が止まりました。抱(だ)くとぬくもりが伝わり、手や頭の形に「赤ちゃんかな」と気付いた時、初めて悲しみが湧(わ)き起こりました。

 父が見つからず肩を落とした時、向かいの広島文理科大(現広島大)から出てきた友人に会いました。涙(なみだ)を流して抱き合い、大学の中へ。その場にいて紹介されたのが同大で学ぶ南方特別留学生の6人でした。

 広島で被爆した外国人の中には、現在のマレーシアやインドネシア、ブルネイから来た彼らもいました。被爆後の1週間を大学の中でともに過ごしました。

 留学生6人は一緒に生活していた「興南寮(こうなんりょう)」や大学で被爆しました。「メイコ、もう怖くないからね」と慰(なぐさ)められ、打ち解けました。以前、寮のそばで夕涼みする彼らを見たことはありましたが、話をするのは初めて。晩は校庭でイモをゆでて食べ、寝転がって休みました。

 8日には留学生と食料を探した自宅跡で、父と自分を捜しに来た母と出会います。その日から、大学を拠点(きょてん)に父を捜しに回る毎日が始まりました。見つからず戻っても「元気出して」と励まされました。彼らも自分の母を「お母さん」と慕(した)いました。実の母が恋(こい)しかったでしょう、「かわいそう」とも思いましたが、にぎやかな日々に勇気づきました。

 終戦前日の14日まで一緒(いっしょ)に暮らす中、留学生から被爆後、川べりにいた女学生を救おうといかだに乗せたものの流された話を聞きました。配給の食料も代わりに取りに行ってくれました。異国で大変な目に遭(あ)っても行動する彼ら。夜は寮から持って逃げたバイオリンを演奏してくれ、心が和みました。

 終戦後、母と向かった久地村で患(わずら)いました。口の中はただれ、髪(かみ)も抜け「死ぬかも」という恐怖(きょうふ)におびえました。その間も母は父を捜し、県立広島病院で建物の下敷きになった最期(さいご)を知りました。

 冬に復学し、貧しい暮らしでアルバイトをして卒業しました。比治山にできた米国の原爆傷害調査委員会(ABCC)に48年から勤め、生活に余裕(よゆう)が出ましたが、21年間の勤務を「すごく葛藤があった」と振り返ります。原爆を落とした国の機関だからです。

 こうした体験を語ってきましたが、やはり心に残るのが南方特別留学生です。被爆死したのは2人。うち1人は大学で別れて帰国の途(と)に就く前、京都で亡くなりました。彼らの存在が、歴史の陰(かげ)に埋(う)もれないよう語り継いでいます。「被爆しても市民を助けようとした若者たちのことを忘れないで」(山本祐司)

私たち10代の感想

安らぎをくれた優しさ

 被爆後、南方特別留学生と過ごした栗原さん。あまりにひどく変わった街の姿に心が止まっていましたが、彼らと出会い「楽しかった」と思える1週間になりました。私には想像しにくい話ですが、悲しみがあふれる中で「お兄さん」のような人たちが安らぎをくれたのでしょうか。留学生は少しも愚痴(ぐち)を言わなかったと聞き、すごく優しい人たちだなと思いました。(中1林田愛由)

米国の施設で仕事 驚き

 栗原さんが戦後、原爆傷害調査委員会で働いた話に、私は最も驚きました。栗原さんは広島の数多くの人たちの命を奪(うば)った国の施設(しせつ)で働き始めたものの、生活が楽になったので、憎(にく)しみは我慢(がまん)するしかありませんでした。私が同じ立場だったら、と考えました。身近な人が殺されたことが許せなくて、その場にいられないと思います。(中3フィリックス・ウォルシュ)

(2018年3月5日朝刊掲載)
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