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社説・コラム

『言』 「3・11」と民間支援 心のつながりを保ちたい

◆被災地NGO恊働センター代表 頼政良太さん

 東日本大震災から間もなく7年。「3・11」後も列島各地で地震や豪雨災害が相次ぎ、民間支援はますます重要になっている。「互助」の姿はどうあるべきか。神戸市に拠点を置くボランティア団体「被災地NGO恊働(きょうどう)センター」で代表を務める、広島市安佐北区出身の頼政良太さん(29)に話を聞いた。(論説委員・下久保聖司、写真も)

  ―ボランティア活動の面から東北の現状を教えてください。
 炊き出しや、がれき撤去が中心だった震災当初と比べ、求められる役割は変わっています。最近は被災者から悩みや困り事の相談に乗ってほしいという声を聞きます。会話の糸口として私たちのセンターは仮設住宅などでバケツに湯を張る「足湯」サービスを続けてきました。原発事故に苦しむ福島もそうですが、長期的な視点で心のつながりを保っていくつもりです。

  ―被災者とのコミュニケーションが大事ということですね。
 ええ。その心構えは災害発生時から必要です。例えば家の片付けを手伝う人はつい、泥まみれの家財を急いで処分してしまいがちです。後に「思い出の品までなくした」と被災者に残念がられるケースもあります。

 時間がかかっても被災者のペースに合わせて丁寧な確認をすれば信頼関係が生まれ、後から参加するボランティアも受け入れてもらえる。2014年の広島土砂災害もそうでした。心を合わせることこそ、センターが掲げる「恊働」です。

  ―そういえば「協」の部首は心を表すりっしんべんですね。
 阪神・淡路大震災直後に結成された地元の仮設支援連絡会が20年ほど前に今の団体名に変える際、モットーとして取り入れたと聞いています。今のセンターの常勤スタッフやアルバイトにも理念は引き継がれ、私も常々意識している言葉です。

  ―ボランティア活動を始めたのはいつからですか。
 07年の大学入学直後です。学内団体の「神戸大学生震災救援隊」から偶然声を掛けられ、最初に顔を出したミーティングで直前に起きた能登半島地震の活動報告を聞きました。実際、能登に行くと家はぐしゃぐしゃ。ショックを受け、人生観も変わりました。困っている人の役に立ちたいと他の被災地にも足を運び、恊働センターでアルバイトを始めました。

 大学4年生の時に起きたのが東日本大震災でした。個人的には10カ所目の被災地支援で、正式にセンターの常勤スタッフになりました。

  ―大きな決断ですね。
 エンジニアを目指して大学に進んだだけに両親も最初は複雑な顔をしていました。どうやって暮らしていくのかと。今は応援してくれていますが、どのボランティア団体も活動資金は決して豊かではありません。

  ―補助金が必要なのでは。
 私の考えは少し違います。確かにお金は必要ですが、行政への依存が強すぎると上からの注文が増えたり便利な労働力として使われたりする恐れもある。私たちのセンターは極力ひも付きでない民間資金に頼っており海外には善意に支えられているNGOもあります。現地で活動ができなくても「後ろ」から支えるボランティアの形が日本にも根付いてほしい。

  ―汗だく、泥まみれになっての活動はやはり大変でしょう。
 基本的には衣食住を自ら賄いますが、気を使ってくれる自治体も増えました。2年前の熊本地震では体育館が宿舎として開放され、500円分の地域振興券が支給されました。昨年の九州北部豪雨は道の駅にテントを張るスペースを確保してもらいました。

  ―3・11をどう迎えますか。
 熊本地震の被災者に東北を案内する計画を進めています。二つの被災地をつなぐことで、新たな連携や恊働の形が生まれてほしい。個人的には可能な限りセンターでの活動を続け、仮設住宅の期限緩和や被災地のコミュニティー再建に携わりたい。

  ―息の長い取り組みですね。
 この神戸でも阪神大震災から23年が過ぎ、肌身で知る人は減っています。被災体験やボランティア精神の継承が大きな課題になっています。そこで目を向けているのは古里の広島です。被爆地の証言者や平和学習について、個人的に学び直そうと考えています。

よりまさ・りょうた
 広島市安佐北区出身。基町高を卒業後、神戸大理学部に進んだ07年から学内の災害ボランティア団体で活動を始める。被災地NGO恊働センターで09年からアルバイトを始め、スタッフを経て15年に代表。神戸女子大非常勤講師。神戸市灘区在住。

(2018年3月7日朝刊掲載)

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