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社説・コラム

『論』 強いられた被曝 事故の影響 息長く追跡を

■論説副主幹 宮崎智三

 剣の達人の刀さばきは速すぎて切られた人は気が付かない。鼻歌を歌いつつ300メートル(3丁)ほど歩いて、ふと体をひねった瞬間、身体が真っ二つに切れるという。

 落語で使われる話だが、今は人気アニメに出てくる技「鼻歌三丁矢筈切り」の方が有名かもしれない。米国出身の詩人アーサー・ビナードさんが以前、放射線による人体への影響をイメージさせる話として、講演で紹介していた。

 確かに、目に見えず臭いもしない放射線の被害は把握し難い。大量に浴びて体調が悪化する急性障害でなければ、遺伝子を傷つけられても気付くのは不可能である。数十年後、がんのリスクが高まることがある、やっかいな代物だ。

 国内の原子力災害では史上最悪の東京電力福島第1原発事故から間もなく7年。時間をかけて人体に影響を及ぼす放射線の特性を考えると、わずか7年とも言える。

 事故で多くの種類の放射性物質が原発施設の外に放出された。人体への影響が大きいセシウム137だと放出量は広島原爆の168倍ほどだ。半減期を考えると、量が10分の1に減るまでに、100年もの歳月が必要になる。

 風向きなどによって関東、東北地方や太平洋など、あちこちに飛散した。被害を福島だけの問題にすること自体がおかしいのだ。

 忘れてはならないのは、自然に浴びる環境放射線ではなく「強いられた」被曝(ひばく)ということである。旅行で飛行機に乗ったりCTスキャンで検診を受けたり、何かの恩恵と引き換えの被曝とも違う。

 不安をあおりたいのではない。セシウム137の放出量は世界最悪のチェルノブイリ原発事故の約10分の1だ。1950~60年代の米国やソ連による大気圏内核実験ではもっと大量にばらまかれた。

 放出量だけ単純に比べれば、福島の事故は桁違いに少ないとも言える。リスクも当然、チェルノブイリよりずっと低い。とはいえ、長期にわたる健康への影響はしっかり見続けないといけない。

 事故で健康被害が生じるか、定かではないからだ。チェルノブイリ事故でも起きた小児甲状腺がんは予想より多く見つかっているが、放射線の影響ではなく、網羅的な検査で無症状や無自覚な微小がんまで発見する「スクリーニング効果」だとの見方もある。

 科学が結論を出せない中、被曝の影響はあまり気にしないという考え方もあるようだ。心配しながら暮らすより、ずっとましかもしれないと思う人もいるだろう。

 しかし国や自治体、研究者らがそうであってはいけまい。放射性物質が飛散した地域の住民や環境に何をもたらすか、万が一にも健康被害が生じないか、目を凝らし続ける必要がある。事故を再び起こさせないため不可欠なはずだ。なのに福島県だけで健康調査をするのは国の責任放棄と言える。

 うまく機能しているのか議論はあるが、原発で働く作業員は、どのくらい放射線を浴びたか管理する仕組みができている。白血病などになっても被曝との関係が認められれば救済される制度もある。

 住民は違う。数十年後に病気になって放射線との因果関係を立証しようとしても、個人の手には負えない。被害があっても、うやむやにされる恐れは消えない。

 ずっと健康状態をチェックされている広島、長崎の被爆者のようなケースは珍しい。元をたどれば、核戦争を想定した米軍が軍事目的で始めた調査だった。治療はしてくれず「モルモット扱い」との反発が強かったのも当然だ。そうした調査が許されるはずはないが、長期間の追跡で、数十年後のわずかながんリスク上昇などが明らかになったことも事実である。

 人体や健康を守るため余計な被曝を避ける国際基準は、一般人の限度を年1ミリシーベルトと定めている。被爆者のデータなどを積み重ね、緩かった限度を厳しくしてきた。

 福島の事故では、政府が原子力緊急事態を宣言して限度を事実上無視している。宣言は今も解除のめどが立っていない。ことさら復興を強調し、帰還を強いる前に、健康被害を含めた事故による影響の全体像を、曇りなき目で把握することこそ政府の責任だ。

(2018年3月8日朝刊掲載)

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